夫がくも膜下出血で倒れた話⑤
長らく続きを書かない間に、リアルタイムの夫はめちゃめちゃ元気になっています。ご安心ください。
※こちらのマガジンに、これまでのことをまとめています。
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5月7日、倒れた3日後の病状説明の日のお話。
※具体的な病状に関する記述等あります。苦手な方は控えた方がいいかも。
GW連休明けのこの日。
何事もなければ、小学1年生の娘(入学式は延期されてまだ)の初めての学童の日だった。
夫の入院と大きく状況が変わってしまったので、本人に意思を尋ねると「行きたい」ということだったので、朝からお弁当を詰めた。
まずは息子を保育園へ。
担任の先生と園長先生に夫の病気について伝える。
(夫は保育園父母の会の副会長という立場もあり、送り迎えもほとんど担当してくれているので、私より保育園でなじみの人物なのだ)
次に娘を学童へ。
緊張した面持ちの娘を先生に託したのち、夫の病気のこと、娘のこと(もともと内向的なところがあるので、必ずしも夫の病気を原因として話さないというわけではないと思う、ということなど)を手短に伝える。
帰宅後まもなく、お義父さんの車が私を迎えに来てくれた。
お義父さんとお義母さん、そして夫の妹と私の4人で、病状説明を受けに、ICUに3日ぶりに向かった。
説明の前に夫のいる部屋に通してもらえた。
会わない間に電話でICUスタッフさんから聞いていた話では、夫は寝たり起きたりを繰り返していて、とにかく痛みを薬で抑えている…という状況だった。
目を覚まし、私に気づいた夫の第一声は「ごめんね」だった。
「なんで謝るとよ!
いろいろ心配なんよね?一番私のことが心配なんやろ?」
と返すと、冗談なのか本気なのか、「うん、一番心配」と夫は答えた。
「私もやるときはやるとよ?
娘ちゃんは、話し合って、今日から学童に行ったよ。
息子くんも元気に保育園に行ったよ。
こっちのことはなんとかなるけんさ。」
病状説明の前後いつだったか失念したが、この日はその他に、誰に連絡をしておいたかなども伝えた。
どれほど痛いかは想像もつかないし、一度に話過ぎても当然聞く余裕なんてないだろう。
だが、彼はたくさんの役割をもつ責任感の強い人なので、いらぬ不安を早めに手放して、少しでも荷物を降ろしてほしかったので、これは今伝えるべき必要最低限の情報だとも思った。
(案の定、すぐにでも知りたかった情報だったようだ。むしろ、あと○○さんにも連絡して、と、モレの指摘を頂戴したぐらいw)
さて病状説明。
私たち4人は別室に向かった。
主治医からの説明は次のようなものだった。
・病名は、「左破裂性椎骨動脈乖離によるくも膜下出血」
・血管のこぶ状になっていた部分が破裂し、緊急措置としてこの部分にコイルを詰め、大きな血管を一本遮断。措置はうまくいっており、脳の圧力コントロールもできている。意識もある。第一の山を乗り越えた。
・遮断した血管の前後に別ルートで繋がっている大きな血管があるため、血液の循環に問題はない。再破裂の確率も限りなくゼロに近い。
・大量出血しているので、腰から管を通し少しずつ血を抜いている。この管の装着のためICU管理中。管自体は、早ければ2~3日で外すことは可能。
・今後当面激痛が続く。2週間以上続く見込みだが、本人にはもう少し短めに伝えている。
・第二の山は、発症から4~14日目にあたるここからの期間。血管攣縮(血管が縮むこと)で手足のしびれなどが現れる。
・コルクで埋めたこぶ周りの毛細血管に血が行かなくなり、今後脳梗塞を発症する可能性もある。
・患部が脊髄近くであることもあり、脊髄の炎症などでしびれや痛みが出ている可能性もある。続くと、脊髄梗塞を引き起こす。脊髄周りの状況はCTでは確認ができず、MRI撮影が必要だが、今はとても撮れる状態ではない。
・治療としては、血液をサラサラにする薬の投与を行っている。
・今後身体に麻痺などの後遺症が発生する可能性はある。手足の動かしにくさの訴えがあるが、これが攣縮によるしびれなのか、脊髄梗塞によるものなのかなどは現時点では判断不可。
・右目が見えにくいという訴え。脊髄と同様に今は検査できないが、目の内部で出血するテルソン症候群かと思われる。2~3ヶ月で軽快していくが、治らない場合は手術など行うこともある。
・入院見込は少なくとも2ヶ月程度か。手足の状況次第でリハビリ入院等の期間も変わってくる。
…要約すると、
・最初の山は越えたが、これから痛みとしびれが続く
・後遺症として麻痺が残る可能性もある
・目にも症状が出ている
・当面入院することになる
という感じだろうか。
説明が終わると、夫の部屋にもう一度通してもらえた。
まずは私ひとり。短い時間だが、ゆっくりと話が出来た覚えがある。
元気になった後の夫から聞いたところによると、「あまりいろいろ覚えていないが、ママ(私のこと)がやたらと明るい様子だったのは覚えてる」とのこと。
次は、お義父さんお義母さんと夫の妹が入室。
その間家族待合室にいた私に、ふたりのスタッフさんが話しかけてこられ、名刺を渡された。
いわゆる「ソーシャルワーカー」さんだった。
今後夫の身体がどうなっていくかわからない。
その上で入院中・退院後の生活を送るための諸々の相談相手となってくれるようだ。
可能性の話として、車いす生活になったときの住宅改修や生活サポートのことなども挙げられていた。
お義父さんお義母さんと夫の妹と合流。
「一晃が、せりかさんをよろしくって!何でも言ってね!」と。
夫は、私には言わなかった具体的なお願いをお義母さんたちにたくさんしていた。
生命保険のこと(これは私もすでに動いていたが)や、私のサポートとして必要なときには子どもを預かったりもしてほしいということ、そして、「手が動かずナースコールが押しにくいから、鈴とか、揺らして音の鳴るものがほしい」ということなど…
私は夫にとって頼りなく、あてにされてないのかな…と寂しくもなったが、今考えれば夫なりの役割分担指示だったのかな、と、前向きに取ることにする。
病状説明後の私のツイート。
かなりハードな現実だが、私は失望していなかった。
夫の痛みや苦しみは想像すらできない。
夫の身体が動かなくなるかもしれない。
これらは本当につらいことだし、できればあってほしくないことだ。
でも、夫は生きていて、夫のままに目を覚ましてくれた。
このときは、それで十分だと思ったのだ。
今後どんな困難があるかわからない。
でも、夫が夫でいてくれたので、物理的に難しいことがあるなら、私が代わりにやったらいい。
これまで夫にしてきてもらったことに比べたら、そのぐらい、たやすいこととさえ思った。
でも、このウルトラポジティブな気持ちは、あっという間に、すぐ翌日に砕かれることになった…
⑥に続く。