上野に若冲に会いに行った話
「甘かった……」
東京芸術大学美術館の地下二階、若冲の<芍薬群蝶図>の前で、私は苦い思いを噛みしめずにいられなかった。
若冲と言えば、鶏。
そのイメージは、私の中に強く根付いていた。
しかし、『日本美術を紐解く 皇室の至宝』展の展示室に飾られていた数点の中で、まず私の目に入り、そして圧倒したのは、この<芍薬群蝶図>だった。
若冲の作品の実物を見るのは、今回が初めてではない。
が、記憶とは薄れるもの、と言おうか。
「こんなに大きい作品だったのか……」
と、今更なことを呟きながら、同時に目が離せなかったのは、画面の下半分、つまり芍薬の群生だ。
本であれ、ネット上の画像であれ、これまでは何となく全体をぼんやりとしか見てこなかった。
しかし、作品の実物を前にした時、まず目に入ってくるのが、画面の半分を埋め尽くす花々。
その密集ぶりが、蝶たちが飛び交う上半分とコントラストを成しているのは、それなりに認識しているつもりだった。
が、実物を前にした時に感じたのは、開いた花や葉の重なりから立ち上る、むっとするような草の匂い、強烈な生命の気配、と言おうか。
似たような感覚は、こちらの<桃花小禽図>でも感じた。
花々に交って、枝から芽吹く若い葉。
上へ上へと伸びるその姿は、まさに「生きている」。
ふと思い浮かんだイメージがある。
西洋の画家は、多くの場合、椅子に座り、キャンヴァスを画架に立てかけて描く。
しかし、日本の絵師は、床に支持体となる紙を広げ、上に渡した板の上に載って、屈みこむようにして描く。
私が思い浮かべたのは、当然後者の姿だ。
若冲が、丹念に葉や花弁の一枚一枚、鶏の羽毛の一本一本を描きこんで行く姿。
丹念に細部を描き込まれた、鳥、虫、樹、花……それらは形は異なれど、皆「生きている」。
生命エネルギーそのもの、と言って良いだろう。
それは、言葉ではうまく説明できない。
作品の前に立って、肌で感じるしかない。
そう思うと同時に、思い浮かべたのは、先日Web版美術手帖にアップされた記事のこと。
https://bijutsutecho.com/magazine/insight/25895?preview=ffbf2447bfa41c956474abd5e558594e
今や皇室のものとなっている<動植綵絵>の実物に会うことができる機会は少ない。
だからこそ、展覧会の予習として、基本的な情報を抑えられるような記事を書きたい、と考えた。
その目的自体は、達成できた、と信じたい。
だが、こうして作品の実物を前にすると、色々と考えてしまう。
もっと書くことがあったのではないか、と。
私が、「頭で書いていた」のは事実だろう。
若冲の「葛藤」について、共感のようなものを感じていた、ということすら、甘く感じる。
たぶん若冲居士本人は、私がこんなことをぶちまけたとしても、静かに見返すだけかもしれないが。
記事を書く書かないは別問題として、とにかく少しでも心惹かれる、と感じた展覧会は見に行くようにしたい。
「感動」体験は、記事を書く上での基礎体力をつけるのに役立ってくれる。栄養を自分に与えるようなもの、とも言えよう。
若冲について、次に書く機会があるとしたら、私は、どんな風に書くのだろう。