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モネの業~『モネ 睡蓮の時』内覧会

国立西洋美術館の『モネ 睡蓮の時』の内覧会に行ってきた。
展示作品全てがモネ作品、という展覧会内容は、昨年の『モネ 連作の情景』以来だ。

が、今回は、連作の中でもモネの究極のモチーフを扱った『睡蓮』をメインに据え、睡蓮以外のモチーフを描いた作品もどこかで、『睡蓮』や大装飾画とのつながりを持っている。全てが、『睡蓮』のためにある、と言っても過言ではないと思う。

水辺の風景は、画業の初期からモネにとっては重要なテーマだった。
陽光にきらめき、空の雲や周囲の風景を鏡のように写し出し、天候や時間帯などの条件の組み合わせによって、多彩な表情のヴァリエーションを見せる。
何と言うことのない水面も、「見ること」に特化した人であるモネにとっては、無限の可能性を秘めた題材だっただろう。

「モネはただの目だ。ただし、何と言う目だろう!」とはセザンヌの言葉だ。
が、彼は同時に「見ること」と、「描くこと」に取りつかれていた人間ではないか。
展覧会を通して見るうちに、そんなことを思った。
1908年、彼は妻を亡くし、自身も白内障の兆候に悩まされ始めていた。
一時は筆も取れないほどに落ち込むが、「国家に大装飾画を寄付する」という目的を胸に奮起し、筆をとる。
彼は自分の目で見たものだけでなく、見た「記憶」をも頼りにして、制作に取り組んだ。
そのモチーフになったのは、睡蓮だけではない。
池にかかる太鼓橋や、池の畔に植えた柳の木、そして彼が作った「花の庭」のバラのアーチなど、彼の身近にあるもの、過去に幾度も描いたモチーフだった。

描く時には、赤やオレンジなどこれまではあまり使わなかった色をも使い、激しい筆致で画面を埋め尽くすように描いた。
近くで見ると、絵の具がのたくっているようにしか見えないが、少しずつ下がって行くと、ぼんやりと像が浮かび上がる。
色彩も相まって、燃えているようにも見えるし、時に色彩の渦に巻き込まれ、奥へと引きずり込まれるような感覚もある。


それは、視力低下に悩まされながらも、尚も絵筆を握り、「描ける限りは描く!」という彼の執念を反映しているようでもある。
描くことは、彼にとって生きることと同義であり、描きたいという思いこそが、彼を生かし、突き動かすものだった。
取りつかれていた、と言って良い。
それは、まさにモネにとっての「業」でもあったのではないか?

これを私はこれから記事の中で書いていきたい。
どうか、うまく行きますように。

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