ブルー・オーシャンを狙え〜歌川国芳メモ
「ブルー・オーシャン」という単語を聞いたことはないだろうか?
一言で言うと、競争率の低い市場のことだ。全く新しい市場として開かれるか、あるいはマイナーであまり競争相手のいない市場か。
浮世絵に当て嵌めるならば、主流だった二大ジャンル、美人画と役者絵は、人気が高い分、手がける絵師も多く存在する「レッド・オーシャン」で、競争も激しい。よほどのことがない限り、売れるようになるのは難しい。
歌麿のように、時代を牽引する新しい型を作り出せるなど、まさにレア中のレアだ。競争相手の多い中で、どうやって個性を打ち出すか、できたとしても、それが消費者たちに受け入れられるかどうかは、また別の問題だ。売れなければ、版元だって仕事をまわしてはくれまい。
いつの世も、ビジネスというものはシビアだ。
歌川国芳も、最初の頃は現実という壁に大いに悩まされた。
13歳で、当時の売れっ子絵師・歌川豊国に才能を見出され、弟子入りするも、すでに美人画や役者絵のジャンルでは師匠だけでなく兄弟子の国貞が活躍していた。
やりにくいことこの上なかっただろう。実際に彼らとの差別化、負けないだけの個性というものを国芳はなかなか打ち出せず、不遇の時が長く続いた。
そんな彼がブレイクするきっかけになったのが、中国の小説『水滸伝』を題材にしたシリーズ絵だ。
歴史上や伝説に登場する武将や英雄の活躍を描く「武者絵」は、浮世絵の歴史では初期からあったものの、すでに太平の世の中、役者絵と美人画に押されたせいもあって、ジャンルとしてはマイナーだった。
が、逆に言うと、手垢がそんなについていない分、自由度の利くジャンルだったと言えるだろう。
さらに歴史や物語の世界を題材にする分、作り手の想像力が問われる部分もあった。
そのような自由度の高さが、国芳にとって大いにメリットになった。
多彩な線を使い分けるデッサン力、色彩やデザインに対する鋭敏な感覚など、国芳の持つ武器が、武者絵では大いに活きた上、想像力の翼を大きく広げ、羽ばたかせるきっかけにもなった。
競争相手が少なかったことも幸いしただろう。
武者絵という「ブルー・オーシャン」に飛び込んだことで、国芳はそのジャンルの第一人者となったして名を挙げたのみならず、想像力を駆使することを覚え、多様なジャンル、多様なモチーフを幅広く手掛けるようになっていく。
武者絵は、まさに「奇想の絵師」としての彼の原点になったと言えるのではないだろうか?