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カラヴァッジョ<聖女ルチアの埋葬>
この絵を見て、すぐに作者の名前を思い浮かべられる人はどのくらいいるのだろう?
正解はカラヴァッジョだ。
そして、この<聖ルチアの埋葬>は、1608年、逃亡生活の途上に滞在したシチリア島シラクサの祭壇画として描いた作品である。
聖ルチアって誰?
聖(サンタ)ルチアという名前は、カンツォーネでもなじみ深い。
彼女は、シラクサの貴族の娘として生まれ、304年にディオクレティアヌス帝による迫害の中で殉教したとされている。
母の病を癒してもらったことをきっかけにキリスト教に改宗した彼女は、自らの財産を貧しい人々に分け与える。しかし、そのことに怒った異教徒の婚約者によって訴えられ、逮捕される。
この先、キリスト教徒たちを待っているのは、凄惨な拷問と死である。
しかし、ルチアは裁きの場に引き出されても臆することなく、自分の信仰を表明し、娼婦に落されることが決まる。
しかし、屈強な男たちが数人がかりで引きずり出そうとしても、また軍隊や何十頭もの(!)牛で、縄をかけて引いて行こうとしても、彼女は一歩も動かなかった。
ロレンツォ・ロット、<裁判官の前の聖ルチア>、1532年、イエージ市立美術館(下のプレデッラにも、彼女を引っ張ろうとする牛の群れが描かれているのが、小さく描かれている)
ついに、業を煮やした刑吏によって、短剣が喉に突き立てられる。
しかし、彼女はそれでもすぐに死ななかった。
その場にいる人々にディオクレティアヌス帝の失脚と、自分がシラクーザの守護聖人となることを予言し、息絶える。
亡骸は、その場に埋葬された。
シラクサのカラヴァッジョ
ローマで殺人事件を起こしたカラヴァッジョは、一時はマルタ騎士団に在籍するも、やがてそこでもトラブルを起こし、1608年に投獄。やがて、脱獄してシチリアへと向かう。
シチリア島シラクサには、ローマ時代の弟分マリオ・ミンニーティがいた。
彼は、<果物籠を持つ少年>など、カラヴァッジョの初期作品でモデルを務めたことで名高いが、自身も画家で、兄貴分の影響を受け、明暗のコントラストの強い作品を描いている。
マリオ・ミンニーティ、<聖ルチアの殉教>
転がり込んできた兄貴分に対し、もともとこの土地の出身だったミンニーティは、地縁を活かし、仕事も世話してやる。
その中で描かれた一枚が、<聖ルチアの埋葬>だった。
カラヴァッジョ<聖ルチアの埋葬>
聖人伝で絵にしやすい場面は、いくつかある。
たとえば、死人を蘇らせたりするなどの、奇跡の場面。
殉教聖人の場合は、何と言っても、その悲劇的な殉教シーンが取り上げられやすい。ミンニーティが描き出しているのもそのケースに入る。
もう一度、カラヴァッジョの<聖ルチアの埋葬>を見てみよう。
作品の印象は、とにかく「暗い」。
むき出しの岩壁が、画面の半分を占め、集った人々を押しつぶさんばかりである。
地面に横たわった聖女の、何と小さく頼りないことだろう。
画面手前に屈強な労働者たちが配されているからこそ、余計際立つ。
顔を覆っているのは母親だろうか。腹の前で手を組み、静かに見下す聖職者らしい人物の衣の赤が、血のように鮮やかだ。
そして、改めて全体を見渡した時、漂ってくるのは、押しつぶされそうな静けさと、無力感、そして悲しみ。
「劇的」という言葉で表現されるカラヴァッジョのイメージには、あまり合わない。
だが、ローマからの逃亡後、画面はより暗く、そして人物たちの身振りもそれほど大げさではなくなっていく。特に、この<聖ルチアの埋葬>や<ラザロの蘇生>では、無力感、悲しみが画面全体をベールのように覆っている。
何故、この「死」の絵は描かれたのだろう。
その理由は、絵が飾られた聖堂の場所にある。
<聖ルチアの埋葬>が飾られているのは、祭壇の後ろ。
そして、その祭壇のあるサンタ・ルチア・デッラ・バディア聖堂こそは、聖ルチアが殉教し、埋葬された場所の上に建っている。
つまり、この場所で昔あった「史実」を描き出していると言える。
この場所こそが
実を言うと、聖女ルチアの墓の上に建っているとは言っても、遺体は、このシラクサにはすでに無かった。まずビザンツ軍に持ち去られ、その後ヴェネツィアへ運ばれて、今に至っている。
シラクサの人々はもちろん、自らシラクサの守護聖人になることを願った聖女本人にしてみれば、どんな思いだろうか。
だが、それでも、シラクサで彼女が生き、死んだという「事実」は動かせない。
カラヴァッジョの描いた祭壇画を前にした時、労働者たちの体ごしに見える人々の、そして聖女の姿を見て、人々は自らが大昔の聖女の埋葬の場に立ち会っているように感じられたかもしれない。
そして思い起こしたのではないだろうか。
ここが、この場所こそが、聖女ルチアゆかりの地だ、と。
聖女は今もシラクサを守護してくれている。その絆が断たれることは決してない、と。