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映画『シェイクスピアの庭』覚書
「ちゃんと仕事に行けたなら、帰りに見ても良いことにしよう」
と心に決めて、今日、映画『シェイクスピアの庭』を見てきた。
シェイクスピアと言えば、『ロミオとジュリエット』はじめ、その作品の多くが映画やドラマ(近いところでは、『ホロウ・クラウン』)の原作になっている。
彼自身について扱った映画といえば、『恋に落ちたシェイクスピア』。
シェイクスピアと、彼のファンである令嬢との恋、そしてそれをベースに名作『ロミオとジュリエット』が誕生、成功を収めるというフィクション。
恋の結末はどうあれ、内容はサクセス・ストーリーに分類できる。
さて、今回見た『シェイクスピアの庭』は、そうした劇作家としての成功の後、故郷に帰った彼の物語。
『恋に落ちた~』が、ロマンスを絡めたサクセス・ストーリーなら、こちらの『シェイクスピアの庭』は、しっとりと味のあるホームドラマと言おうか。
20年ぶりに故郷に帰ってきたシェイクスピアに対し、妻も娘たちもよそよそしい。(冒頭で、暗い家の中で像のように無言で立っているのが怖い)
そんな彼女たちを尻目に、彼は11歳で死んだ愛息ハムネットのための庭を作り始める。
機知に富んだ詩を書き、将来有望だった一人息子。
しかし、彼は疫病にかかり、父親が帰ってきた時には既に埋葬されていた。
死んだ息子の思い出が、17年という歳月の中で美化されていったのは、自然な流れだろう。
しかし、シェイクスピアは、本当の息子の姿を知らなかった。
彼が褒めた詩、才能の萌芽を認めて喜んだ詩は、実はハムネットの双子の姉妹ジュディスの作だった。ハムネットは、字が書けない彼女が口ずさんだ詩を、書き留めただけ。そして、それを父に見せた。
父を愛していて、喜んで欲しかったから。
ただそれだけだった。
しかし、父は喜び、期待を寄せたことで、ハムネットは「嘘」が発覚するのを恐れるようになった。
一方、女という理由で、学校にも通えなかったジュディスは、父子の後継に、苛立ちを募らせていく…。
それをさらに見ていたのが、シェイクスピアの年上の妻アン。(ジュディ・デンチの演技、存在感が良かった!)
彼女は、家族の間で本当にあった事、子供たちの「真実」の姿を全て見ていた。そして、腹の中に収め、中身がパンパンになった袋の口を縛るように、口をつぐむ。息子が死んだ際も、「疫病による死」として届け出る。
対するシェイクスピアは、「幼くして疫病で死んだ、可哀そうな、才能ある息子」の「虚像」に囚われ、20年以上離れて暮らしていた家族の「真実」の姿が見えていなかった。
戯曲の中で、人間の愛憎や、弱さや欲望、嫉妬、あらゆる姿、感情を書き尽くしてきた彼が。「身近」なはずの家族の本当の姿が見えていない!
「俺がロンドンで仕事をし、稼いだから豪邸だって買えたし、良い暮らしができてるんだろ」と言ってみたり、家長風を吹かせてみたり。
だから何、と言わんばかりの女性二人。
何も知らないくせに。何も見ていなかったし、今も見えていないくせに。
一人でロンドンに出て、お金だけ送って、今更帰ってきて…。
「真実なんてどこにもない」
ジュディスの言葉が刺さる。
一体、今見えている物の中に、「絶対の真実」と言い切れるものはどれだけあるのだろう。
突きつけられた「真実」と向き合うことで、シェイクスピアは、少しずつ家族との失われた時間を、そして家族のつながりを取り戻していく。
最初はよそよそしかった家族も、少しずつ、歩み寄っていく。一緒に庭仕事をしたり、結婚契約書に、当時は書けなかった自分の名を書き込んだり。
そして、ラスト。
シェイクスピアの棺の前で、妻と二人の娘たちは詩を読み上げる。
その後に暗転した場面の中央に、赤くくっきりと浮かび上がる原題
’All is true.(全て真実)’
ここで、ぞくっと来た。
「シェイクスピアの庭」、という邦題から美しい自然描写を期待していた。(確かに、映し出される自然や風景の美しさは、印象的だった!)
が、この映画からキーワードを抜き出すとすれば、「真実」に他ならない。
17年前に死んだ息子の「虚像」に執着し、「真実」が見えていなかったシェイクスピア。
「真実」を知り、全て呑んで黙っていた妻アン。
耐えきれずに、「真実」を突きつけるジュディス。
この映画は、もう一度見たら、また違うものが見えてきそうな気がする。