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北斎と広重

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北斎は、美術史上有数の天才画家であることは今更言うまでもない。

「怪物」と言って良いレベルだと個人的には思っている。

90年の生涯の大半を絵を描くことに捧げ、地道に積み上げ、それらの経験を集約させたのが、かの<富嶽三十六景>シリーズならば、同時代の他の絵師たちは、彼を、そして彼の作品をどのように見ていたのだろうか。

それに対する答えを提供してくれるのが、今回の「北斎と広重」展(@江戸東京博物館)であると思う。

まず、展覧会の冒頭を飾るのは、絵を描くことが大好きな10歳の少年が描いた一枚の富士の絵。

「もっと上手に描けるようになりたい」

そんな素朴な願いを抱くのも当然だろう。

もっと絵について勉強したい。

だが、少年は、武士階級―――代々火消し同心を務める家の長男として生まれ、将来の進路が早くから決まっていた。

そして、13歳の時に、両親の相次ぐ死によって、それは現実になる。

敷かれたレールに乗って、家督を継ぎ、仕事にも就いたが、それでも絵に対する思いは消えなかった。

15歳で歌川派の門を叩き、弟子入り。

「広重」の名前をもらい、以来、二足の草鞋を履いて活動することになる。

絵がうまくなりたい。

その一心で、努力を重ねるも、絵師としてはなかなか芽が出ない。

「自分の絵とは?」

そんな葛藤の中、1831年、絵師・北斎による<富嶽三十六景>の刊行がスタートした。

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奇抜な構図。

風や波など、形のない、刻々と形を変えて行ってしまう自然を瞬間的にとらえた表現。

一枚一枚に、工夫が凝らされ、多様なモチーフが描き込まれている。

それは、当時70代になっていた北斎が、それまでの絵手本「北斎漫画」や、読み本挿絵、その他様々なジャンルにおける経験を土台にして、作り上げた「集大成」とも言うべき作品群だった。

30代にして、未だ「これが自分!」と言える絵を描けていない広重にとって、どれほど衝撃を与えただろうか。

絵のためだけに生まれてきたような変人・北斎。

対して、絵に対する思いを抱えながらも、二足の草鞋を履いて生きてきた広重。

こんな絵が、描けたら…。

こんな風に描けたら…。

いや、自分だったら、どうする?

広重は、一枚一枚を見つめながら、悶々としたのではないだろうか?


その後、1834年、<富嶽三十六景>シリーズの刊行が終わると、広重の<東海道五十三次>の刊行が始まる。

そこには、<富嶽三十六景>と似たような作品が欲しい、というニーズもあっただろう。

そのチャンスを、広重は物にすることに成功した。

恐らく、そのためにも、<富嶽>シリーズの刊行中は、一枚一枚をチェック、研究して、入念に準備を重ね、構想を練り続けていたのではないだろうか?

そして、<東海道>を刊行した二十年以上後には、<富士三十六景>と題するシリーズを二回刊行している。

タイトルからして、北斎を意識しているのは丸わかりだが、北斎という大きな壁がなかったら、絵師・広重も「大勢」の中に埋もれてしまっていたのではないだろうか。



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