木下昌輝さん『絵金、闇を塗る』を読みながら
木下昌輝さんの『絵金、闇を塗る』を土曜日から読み始めた。
江戸時代末期、土佐の「剃」と呼ばれる髪結いの子供として生まれた少年絵金が、才能を見出されて狩野派に弟子入り、天才絵師としてもてはやされるも、独自の美を追求し続ける……
絵金という人については、名前と血なまぐさい絵を描く人、ということしか知らない。(どうして、美術史を見渡していると、このようなグロテスクで血なまぐさい絵を描く人が、時々まるで突然変異のように出てくるのだろう?)
今は、2章にあたる、「絵金と画鬼」まで読み終わったところだ。
2章は、土佐藩の御用絵師で、絵金の師匠である前村洞和の視点で語られる。
江戸時代、日本の画壇の中心を占めていた「狩野派」、それに属する一人として生きるということがどういうことか。それが細かく書かれているのがありがたく、興味を惹かれた。
それに対する感想は…
「随分と窮屈でつまらない生き方だな、おい」
たとえ、地位は保証されても、面白い絵は描けないのではないか。
なぜなら、狩野派の絵師になることは、作中の言葉を借りるなら、「狩野探幽の技量をそっくりそのまま再現できる絵師」になること、それを量産し、全国、将軍家から各地の大名家、そして町絵師に至るまで広めること。それに尽きる。
それ以上でもそれ以下でもない。
狩野探幽、<四季花鳥図(雪中梅竹鳥図)>、名古屋城障壁画(Wikipedia)
とにかく手本を忠実に再現することが第一。
個性や、自分ならではの工夫、アレンジは必要ない。むしろ忌避される。
「何だそりゃあ…」
ルールに従うこと、それなりに合わせるのは、それはそれで生きて行く方法だろう。少なくとも、何らかの形での「安定」は保証される。
だが、あれは駄目、これは駄目…こんなルールづくしの中から生まれる、似たり寄ったりの絵、他の「仲間」と間違えられても仕方のない絵を描くだけで、本当に満足して良いのか。
伊藤若冲も、最初に学んだのは狩野派の技法だったが、数年修行したところで、「いくら手本通りに描いたところで、これは自分の絵ではない」と気づき、別の勉強法を採用した。
今回、『絵金~』の2章を読んでいて、若冲のこのエピソードが思い出され、苦笑いがこみあげてきた。
無理もないよなあ…、と。
本当に才能があるなら、外から押し付けられた枠の中に納まりきるを是とせず、底の底から溢れてくるものを止められない日が来る。
小説の主人公である、絵金もそうだ。
天才的な素質の持ち主ではあるが、素行が悪い弟子を、師匠はそれを苦々しく思い、ついには「一人前として認める」という名目で、体よく追い払おうとする。
しかし、絵金が去った後、洞和は物足りなさを感じる。かろうじて、心に潤いが戻るのは、絵金が残していった「戯画」とも呼ぶべき作品を眺めている時くらいだ。
前は当たり前のように描けていた絵すら、「ちゃんと」描けない。
しかし、そんな彼の前に、最後心に火をともす出会いがある。
川を流れて来たという生首を写生する少年―――後の河鍋暁斎である。
この時は歌川国貞の弟子だが、後に史実通り、洞和の弟子になることが暗示される。
洞和は、彼を「画鬼」と呼んで可愛がった。
「絵金と画鬼」とタイトルを見た時は、グロテスクな主題を手掛ける二人が対峙する話かと思ったのに、顔を合わせる場面すらない。少し拍子抜けする思いだったが、これはこれで面白い。
それにしても、彼らが「師匠」という共通項を間に挟んで繋がっていたとは全く知らなかった。
河鍋暁斎の方は、去年、サントリー美術館の展覧会を通じて、触れたのが最初だった。
日本美術に限らず、美術に関して、知らないことはまだまだごまんとあるだろう。
アンテナを広げ、少しでも「世界」を広げていきたい。