【歌舞伎文化公園】天守風展望台の中の考古資料室
はじめに
前回紹介しました、市川三郷町の歌舞伎文化公園のふるさと会館の展望台ですが、建物の2階は考古資料室になっています。
旧三珠町の考古資料を集めたものですが、意外と展示が多かったため別記事として紹介します。
表題の画像は、旧三郷町内の大塚古墳から発掘された六鈴鏡と鈴釧です。
考古資料室
旧三珠町の縄文、弥生、古墳時代、中世の展示のほか、近代のゆかりの偉人まで網羅しています。開業時にだいぶがんばって展示を作ったように感じられますが、当時のままで展示の入れ替えなどはしていないと思われます。
筆者の記憶では、旧三珠町では昭和の時代に上野小学校か大塚小学校の屋外に考古資料の収蔵庫があったと本で見たのですが、詳細を確認できまておりません。この施設が完成して考古資料は移されたのだと思っております。
配置図があります。建物の構造上、正方形の建物の内部を周回する順路です。気のせいか團十郎の三枡紋に見えてしまいます。あと、上から三珠町の前に「旧」のシールを貼っているのが気になります。
旧石器時代・縄文時代
古い時代から順に、まず旧石器時代・縄文時代の区画からみていくことにします。
縄文中期の曽利式土器が2点埋め甕です。解説シートによればどちらも逆さの状態で発掘されました。大塚北区峰村の住宅付近で発掘とのこと。
下記は左から尖頭器、押型文土器、顔面把手、石鏃、打製石斧とあります。押型文土器は8000年前のもので旧三珠町で発掘された一番古い土器といいます。
残念なのはこちらの展示はすべて出土した遺跡名がないのです。前述のように小学校に収蔵庫があったことから、整理、管理がちゃんとされていなかったように思います。
下記画像の左の土器は、井戸尻式土器で、4000年前で一条氏館跡遺跡と遺跡名があります。この歌舞伎文化公園の中です。一条氏の時代よりずっと前から人の住む場所だったのです。
もうさらにもう一つ曽利式土器がありますがこちらも遺跡名がありません。
上野遺跡については、別に展示があります。歌舞伎文化公園の南にある農村広場の造成により発掘された縄文時代と弥生時代、古墳時代の遺跡です。
弥生時代・古墳時代
続いて、弥生時代・古墳時代の展示です。
神獣鏡と内行花文鏡です。明治26年頃、鳥居原狐塚古墳から発見されたもので、国の重要文化財です。こらちにあるものはレプリカです。
神獣鏡には中国三国時代の呉の年号で赤烏元年(238年)とあります。呉の年号の入った鏡では国内で一番古いものです。
古墳時代の鎧である挂甲は大塚古墳(5~6世紀)のものです。また、円筒埴輪も大塚古墳のものです。
一条氏館跡遺跡は古墳時代の遺跡で土器のほか、金属製の馬具や刀剣が出土しています。
大塚古墳
古墳時代の展示に加えて、大塚古墳に関するコーナーがあります。大塚古墳は市川三郷町大塚にあり歌舞伎文化公園から北東に所在する全長約40mの前方後円墳です。帆立貝式前方後円墳と言われることもあります。試掘から本来の全長は50m以上と推定されています。後円部、前方部の2ヵ所に竪穴式石室が存在していることに特徴があります。
1993年(平成5年)耕作中に発見された直刀と六鈴鏡と鈴釧が入って正面に展示されています。考古資料室がオープンした後の発掘資料のためでしょうか。それとも目玉資料ということでしようか。
直刀は鉄製で、まっすぐで日本刀のような反りはありません。表面に木材が付着しているそうです。これは鞘に入れて埋葬されたものと考えられます。
六鈴鏡ですが、6個の鈴がついた青銅の鏡です。山梨県内からはこの1点のみ発見されています。鈴の中には石玉が入っており音が鳴るそうです。
鈴釧は腕飾りなどと考えられていますが、さだかではありません。こちらも10個の鈴は音が鳴るそうです。
正面の直刀、鏡、鈴釧とは別に大塚遺跡のコーナーがあります。
大塚古墳の資料はこちらの代表的な展示ですが、入り口、古墳時代コーナー、大塚古墳専用コーナーと3か所で別々に置かれていてやや分かりにくいです。
形象埴輪の破片が展示されています。須恵器の破片など展示されています。
人々の心に生きる信仰
この一角は、地域の道祖神や祭りなど代々受けづかれてきた地域の歴史を紹介しています。道祖神のレプリカが置かれています。
続いて、庚申塔のレプリカがあります。庚申塔、百八灯の解説があります。
こちらは、旧三珠町上野小学校の近くにある表門神社のお祭りの紹介です。神楽の面などがパネルで展示されています。映らない映像モニタも平成初期のものでしょうか。
1階へ降りる階段に平成11年頃の表門神社の祭典と神楽の写真が展示されています。祭典は平安時代から受け継がれているといいます。
中世の村と人々の暮らし
中世、近世の旧三珠町について解説があります。稲作、畑作が中心でしたが耕地が少なく各地へ商売に出ていた人もいたようです。そうした暮らしぶりが分かる古文書が展示されています。
「丑御年貢皆済目録」は、文政12年(丑年)に上野村の年貢が完納されたことを証明する受け取りです。
「御検地水帳」は、村の面積、石高を調べた結果を領主が交付したものです。
ゆかりの偉人たち
屏風状のパネルで旧三珠町ゆかりの偉人を紹介しています。
内藤肥前守と一条信龍が大きく扱われています。
内藤家は代々武田家に仕えた家柄で、内藤肥前守の功績により所役免除の御朱印状を受けたとのこと。ケースの中に御朱印状かあります。武田四天王の一人に内藤昌豊がいますが、同じ家系でしょうか。とにかく内藤肥前守としか説明がなく生没年も記載もなく詳細が不明です。
一条信龍(1539年~1582年、天文8年~天正10年)は、前の記事でも触れたとおり信玄の異母弟で信玄の父武田信虎の八男です。親戚筋の一条家に養子に入っています。歌舞伎文化公園のある辺りが一条氏塁跡として一条氏の館と考えられます。
八ノ宮良純親王(1604年~1669年、慶長8年~寛文9年)は、江戸時代の天皇後陽成天皇の第8皇子です。出家していましたが、何らかの理由で甲斐に流されて、旧三珠町内の薬王寺に5年間住んだとのこと。薬王寺には親王の御座所が残されています。
中井清太夫(1732年~1795年、享保17年~寛政7年)は甲府代官とてし着任していた人物です。当時、大雨のたびにこの辺りのかんがい用水路が逆流し困っていたため、中井清太夫に願い出て用水路の大改修が行われたといいます。
一瀬益吉(1866年~1921年、大正10年)は、村長も務めたほか桑園の改良、製糸工場設立など養蚕振興に尽くした人物です。益吉は質、収穫量の高い苗木を増やし、一ノ瀬桑と名付け全国に広まりました。
薬袋義一(1855~1903、安政元年~明治36年)は、明治13年県議会議員に選出、その後、山梨の自由民権運動の進展において新聞『峡中新報』を立ち上げ、県政に反対の論調を展開した人物です。明治25年から衆議員として3回当選しています。
丹沢正作(1876年~1926年、明治9年~大正15年)は、早稲田法科卒で、夜学「平民学校」を開設し英語や法律を教えました。農民から「山の先生」と慕われ尊敬された人物です。上野村小作組合なども設立しました。上野村役場に勤めており、村長を期待されていましたが助役のときに亡くなりました。
おわりに
以上、考古資料室の紹介でした。考古といいなから郷土の偉人を扱ってしまっていて、旧三珠町の規模でこれだけの展示室を埋めるのに持て余した感は否めません。それでも、考古資料を常設できるだけのスペースが確保できているのは貴重です。企画展示や展示の更新を行ってもらいたいと思いました。次回は、歌舞伎文化資料館を紹介します。
参考資料
「ふるさと会館考古資料室「太古の栄光と人々の暮らし」について」展示解説シート