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【昭和町風土伝承館杉浦醫院】地方病の「記憶」を伝え残す資料館(8) 第2回地方病を語る会

はじめに

 地方病の記憶を後世に伝え残す資料館こと昭和町風土伝承館杉浦醫院において、「第2回地方病を語る会」が2023年(令和5年)12月3日に開催されました。
 杉浦醫院と昭和町教育委員会は2022年3月『地方病を語り継ごう―流行終息宣言から25年-』を発刊しました。この本に体験記を寄せた方から生のお話を伺うという内容で「第1回」が7月に開催されました。かねてからの予定どおり「第2回」が実現しました。
 杉浦醫院では、現代アートや演劇、和のフリーマーケットなどの催しにて話題を発信しておりますが、今回は「記憶」を伝え残すうえで基本とも言える地方病の生の声を聞く取り組みの模様を紹介いたします。
 トップ画像は、地方病対策の切り札となつた水路のコンクリート化事業の解説の様子です。

真っ赤に紅葉した杉浦醫院の庭園

 「第1回地方病を語る会」の模様はこちらをご覧ください。

 地方病(日本住血吸虫症)と杉浦醫院についてはこちらをご覧ください。


流行終息宣言(再掲)

 1996年(平成8年)2月19日に地方病流行の終息宣言が山梨県により出されました。県が終息宣言を出した理由として、1978年(昭和53年)を最後に新規患者が確認されていない。1976年(昭和51年)を最後に中間宿主になる寄生虫に感染した宮入貝が発見されていない。この2点によります。
 これにより地方病対策は宮入貝の殺貝事業から5年間の監視事業へ移行しました。
 2002年(平成14年)昭和町押原の源氏蛍発生地公園に終息宣言の碑が建てられました。現在は杉浦醫院に移設されています。

当所設置された終息宣言の碑 出典 : 山梨県立博物館ツイッター

「地方病を語り継ごう」(再掲)

 地方病の流行終息宣言から25年が過ぎ、地方病の「記憶」を持つ人は年々少なくなり、地方病は「記録」のみになりそうな状況にあります。そうした現状もあり、節目を迎え昭和町教育委員会と杉浦醫院は関係者の証言や寄稿を集め、2022年6月『地方病を語り継ごうー流行終息宣言から25年ー』を発刊しました。
 地方病体験記には48人の手記が載せられています。後半は医療関係を始め各分野の関係者からのなどからの寄稿文で構成されています。
 そのチラシに、筆者の心を捉えた言葉がありました。
 「(略) その記憶を後世に伝え、経験を生かしつづけるために、(略) 」(太字は筆者)
 地方病に115年かそれ以上の長い戦いの歴史がありますが、残すべきは「記録」ではなく「記憶」なのです。そして「活かす」のではなく「生かす」とあります。地方病の記憶と経験を過去のものとせずに、生きたものとのして残そうとする杉浦醫院の地方病伝承館としての姿勢が現れているのです。「記憶を生かす」ことこそふさわしい表現であると感じました。
 巻末の資料や年表も充実しているため、「地方病」に関する調べものをするうえでたいへん助かりました。価格は300頁のボリュームで破格の1,500円(税込)です。

「その記憶を後世に伝え、経験を生かしつづけるために、」

第2回地方病を語る会

 「地方病を語る会」は『地方病を語り継ごう』に手記を寄せていただいた中から2人の方に直接語っていただきます。今回はご自身の罹患体験の方と地方病対策としてミヤイリガイの駆除に絶大な効果のあった水路のコンクリート化(溝渠事業)に携わった方のお話です。

当日の杉浦醫院
農具に玄関にチラシを掲示
案内のチラシ(個人のお名前は加工しました)

 会場は杉浦醫院2階の学習室です。募集定員は30人で満席でした。

 冒頭、館長から挨拶がありました。地方病終息宣言から25年を過ぎ手記を出版したこと。手記の出版だけで終わらせずに、活かすことはできないか、そう考えて始めたのが「地方病を語る会」であること。地方病の体験者が高齢化しているので、この本が最後の手記になるのではないだろうか。そういう危機感の中で、いまのうちに直接生の声を聴いてもらいたい。そうした思いを語られました。

挨拶する館長(左)

「私の地方病体験」昭和町在住のHさんのお話

 昭和町のHさん(83歳)は、「私の地方病体験」として自身が3度地方病にかかったことや、のちに農事組合の役員となったときのことを語りました。

地方病の思い出を語るHさん(左)

 地方病は寄生虫(日本住血吸虫)により感染する病気ですが、まずその生活環の確認をします。そして肝臓の近くに寄生する寄生虫の姿を説明しました。下記の画像が寄生虫の姿でありたいへんグロテスクに見えます。これがHさんは、むしろかわいいとさえ感じるのだといいます。

肝臓付近に寄生する日本住血吸虫のオスとメスのペア
出典 : 『地方病とのたたかい』

 それもそのはず、Hさんは5度地方病にかかったといいます。手記では3回地方病にかかったとことになっていますが、実はサバを読んでいたとのこと。その都度回復したものの、耳鳴りの後遺症があるといいます。後遺症の多くは注射器の使いまわしによるB型肝炎、寄生虫の残した卵による肝臓病などが多いと言います。後遺症ですでに亡くなった同年代も多いと言います。

 お話は手記の内容を確認するように進みますが、手記には書いていないことがところどころ補足されています。
 農家の四男で6人きょうだいの末っ子のHさん、家は戦後農地解放で広い農地を耕作することになります。一時は作男(使用人)を2人使ったいたとも。
 小学校入学前の検査で地方病にかかっていたと分かりました。これが1回目の感染です。父親に怒られますが、それよりも学校に行けなくなるのは困るという気持ちのほうが強かったそうです。同じく感染していた6年生の姉(次女)と三上医院へ通って駆虫剤のスチブナールを打つことになります。三上医院とはかつて飼い猫を解剖して、寄生虫を発見した三上医師の医院です。スチブナールの薬剤の空箱を看護婦さんに頼んでもって、メンコやビー玉を入れる宝箱にしていたといいます。

杉浦醫院に残されていたスチブナールのアンプル

 3年生に再度かかります。家の手伝いが増えて水田に入ったせいか、それとも川で泳いだせいかさだかではないといいます。
 さらに5年生では川でうおとりをしていてかかります。子どもたちの履物は藁草履や下駄です。みんな地方病の恐ろしさ理解していなかったのです。

 田植えの手伝いに来る人(早乙女さん)は油みたいな薬を足に塗って田に入っていました。寄生虫が肌から入らないようにするためのものでベンテールという薬剤で杉浦三郎博士が開発したものだと知ったそうです。
 その後、稲作は水田のリスクがあるので養蚕に転換するものの、昭和34年の貿易自由化により海外から安い生糸が入ってきて養蚕もやめたといいます。
 地方病の怖さを実感したのは、5年生のときに近所の1学年上の子に腹水が溜まり亡くなった事だといいます。地方病は肝臓を蝕むので末期になると肝硬変をおこし腹水が溜まるのです。また、高校時代には隣の席の子が学校へ来なくなりその後亡くなったと聞いたといいます。

腹水の溜まった患者を診る杉浦三郎 出典 : 杉浦醫院

 Hさんは後に農事組合の役員になり、地方病と最後に関わったのは1982年(昭和57年)の環境衛生委員でした。ミヤイリガイの生息調査をするのですが、農事組合員の奥さんたちはよそから嫁に来た人たちばかりのためミヤイリガイを見つけられないのです。Hさんが探すと2匹見つかったといいます。しかしミヤイリガイの中に寄生虫はもういませんでした。1978年(昭和53年)を最後に地方病の患者はいなくなっていました。
 戦後の山梨県選出のととある衆議院議員は、水路のコンクリート化のために国から予算をつけた人物として知られているそうです。この辺りの農家にはその議員の写真額が飾られているくらい感謝されていたといいます。
 Hさんの育った時代には地方病の特効薬があり、膨大な費用をかけて水路のコンクリート化を進められました。そうした先人たちの英知と努力とともに、政治手腕も手伝って地方病の終息があるのだとHさんはいいます。

ミヤイリガイとカワニナとの比較展示

「溝渠対策に取り組んで」昭和町在住のSさんのお話

 地方病の予防対策は、寄生虫の中間宿主となるミヤイリガイを駆除することが最重要でした。殺貝剤の散布やバーナー焼却などが行われましたが、最も効果を上げたのが、水路のコンクリート化(溝渠対策)でした。
 昭和町在住のSさん(79歳)は「溝渠対策に取り組んで」と題して、町の職員としてコンクリート化を進めた苦労話のほか、詳細なコンクリート化の進め方をお話してくださいました。また、何より模造紙6枚分の手書きのイラストと図面の資料が素晴らしいです。

溝渠対策の説明をするSさん
コンクリート化の前後 出典 : 『地方病とのたたかい』

 さて、Sさんは甲府市の生まれで昭和40年に昭和町(当時は昭和村)に引っ越してきました。百貨店勤務を辞めて昭和村の役場勤務になったからです。地方病(日本住血吸虫症)は他の地域にもあったものの山梨が重点地域で、なかでも昭和町は最重点地域だでした。地方病のレッテルで新しく引っ越してくる人はほとんどいなかったのです。

 まず、中小河川から田へ水を引くための水の流れと水路の役割を解説してくださいました。
 上部を左右に流れる中小河川から用水路(左側上から下)から取込みます。手前の田を潤すと、あふれた水は隣の水路へ入ります。田、水路、田、水路、と水が渡り最後は排水路から中小河川へ戻します(右側下から上)。
 こうした、水路が網の目のように出来ていていたのです。

用水の流れ

 断面図で高低差により、水路の水が田に入り(用水路、中央の赤い水路)、その水が排水される(排水路、左の赤い水路)様子も解説。

用水路と排水路の高低差

 続いて水路をコンクリート化の着工までの手順です。(下記画像右側)

水の流れと着工までの手順

 要点をまとめます。
・水利権があるので同意書のもと、要望ヵ所をとりまとめる
・現地調査は作付けの始まらない4月~5月に行う
・指名競争入札で12業者が請け負っていた。そのうち5社が昭和町内の業者だった。

 続いて、積算と設計です。溝渠には企画があり(1型から9型、特1型、特9型)どのサイズにするか、コンクリートの量がどのくらい必用か計算します。(下記画像左)
  設計は、曲線のある元の水路に対して直線に置き換える位置を決めます。(下記画像右)

積算と設計

 積算では、どれだけコンクリ―トを使うか。ここで小学校の算数の台形の計算式が役に立ったといいます。また、立方メータで計算するのが立方センチと計算を混同しやすいとかで、すると計算を間違えることがあると後で大変なことになるそうです。
 一方設計は、曲線の水路を直線に置き換えることで田の境界がかわるため、変更前と同じ面積になるように地権者立ち合いで決定します。
農地が変動するためもとと面積になるように起点と終点を決めるのがたいへん。残土が出るが代わりに不足土の場所もある。ちょうど残土と不足土がイコールになるとよいがそうでないと土の処理に困る。

 規格に沿った溝渠で対応できない場合の特殊な場合があります。(下記画像左側)、また事業費について国庫補助の説明です。
 最後に完成した溝渠の起点にプレートを付けて完成します。プレートには書式と地区ごとの分類番号があります。(画像右側)

事業費やプレート、苦労話

 最後に苦労話を紹介してくださいました。要点をまとめます。
・政治的な外圧、甲府から移住したため、しがらみを知らないのが幸いした
・設計の立ち合いまで進んでいるのに地権者同士が争い
・現場の立ち合い、契約事務、業者への支払い
・日誌はあとから書いているのでつじつまあわせ
・会計検査院が一番怖い、検査の対象にならないことを願うのみ
 昭和47年の第一次オイルショックでは、コンクリートが入ってこなくなり、直接買い付けたコンクリートを鉄道貨物として送ってもらい、竜王駅に取りに行って業者に分配したと言っておりました。

質疑応答と参加者のお話

 質疑応答では、活発な質問がいくつも寄せられました。以下、質疑応答の概要です。

質疑応答の時間へ

 スチブナールについてもう少し知りたいという質問がありました。
 館長の解説で、体の中にいる寄生虫を殺す駆虫剤であること。大人は毎日20回ほど注射をするが副作用が強いため、子どもは1日おきに20回ほど注射をしていたといいます。

 続いて、学校教育の中で地方病に対する注意喚起はなかったのかという、質問です。
 Hさんによれば、校舎の二階から見えており、魚取りのために川に入るのが見えるのとすぐに注意されたといいます。

 続いて、旧御坂町(笛吹市)だけれども昔、地方病の検査をして発見された人を見ているという目撃談。
 Hさんによれば、反応検査だといいます。1センチ以上腫れると地方病に陽性であると判定していたそうです。

 また、最後に峡南地域(山梨の南部地域)の保健所で地方病対策にあたられた方が発言されました。糞便の研究をされており本にまとめるなど、たいへん功績のあった方だと館長が補足説明をされました。そのご苦労を讃えて拍手が自然と湧き上がる会場でした。
 第3回の地方病を語る会は4月か5月頃を計画しているとのこと。およぞ2時間の語る会は散会となりました。

おわりに

 「第2回地方病を語る会」を紹介しました。「語る会」は続けていくことが大事だと館長の言葉です。今後も続けていくうちに地方病を知らなかった世代の参加が増えていくことを期待しています。
 筆者も微力ながら「記憶」を残す杉浦醫院の活動に賛同し今後も発信して参ります。

静かに流行終息の碑

参考文献
山梨地方病撲滅協力会『地方病とのたたかい(体験者の証言)』山梨地方病撲滅協力会、1979
山梨県衛生公害研究所、梶原徳昭『地方病とのたたかいー地方病流行終息へのあゆみー』山梨地方病撲滅協力会、2003
昭和町風土伝承館杉浦醫院編『地方病を語り継ごう-流行終息宣言から25年-』昭和町教育委員会、2022

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