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【昭和町風土伝承館杉浦醫院】地方病の「記憶」を伝え残す資料館(3) ホタル復活への願い

はじめに

 昭和町風土伝承館杉浦醫院の庭園では、5月中旬から源氏ホタルが舞いました。
 昭和町内を流れる鎌田川はかつては県内有数のホタルの生息地であり、源氏ホタルは国の天然記念物に指定されていました。しかし、地方病(日本住血吸虫症)の予防対策により野生のホタルは絶滅し、天然記念物の指定も解除になりました。地方病は終息しましたが、宅地化が進んだ現在の昭和町においてホタルを復活させることは困難です。
 杉浦醫院ではホタルが自生できる環境を整える取り組みをしており、庭園内にホタルの幼虫を放流しています。それはかつて、杉浦醫院8代目杉浦健造博士が地方病の究明や、村長としてホタルに縁してきた姿に重なります。

 なお、昭和町や愛護会は「ゲンジボタル」を「源氏ホタル」と一貫表記しています。本稿でもそれに倣い「源氏ホタル」と表記いたします。

池のそばから見たモミジと医院棟

 これまでの記事はこちらです。通し番号を付してサブタイトルを変更しました。

杉浦醫院の源氏ホタル

 初夏の風物詩ともいわれるホタルですが、杉浦醫院で源氏ホタルが舞うのは5月下旬から6月中旬頃です。本年(2023年)は、5月15日に最初のホタルが2匹確認されました。今年は桜の開花も記録的に早かったためかホタルの発生も早いようです。成虫になったホタルの命は10日から2週間程度です。

庭園内の池

 ホタルは曇りで暗く、湿度が高く、風のない夜に光ります。雨上がり蒸し暑い晩がホタル観察には最高のコンディションです。
 また、活動が盛んになる時間は一晩に3回と言われています。20時~21時、23時~0時、2時~3時です。
 20時頃に観察するのが現実的といえます。「暗さ」「静けさ」がないとホタルは隠れてしまいます。筆者は5月19日(金)の晩に行きましたが、4匹を確認できました。
 残念ながら地元マスコミで紹介された後は、大勢の人が訪れてしまい、ホタルにとっても近隣に住民にとってもよくなかったようです。ホタル鑑賞は静かにまいりたいものです。

ぜんぶで4匹みつけたうちの2匹 2023年5月19日
上画像と同じ場所、ホタルがいたのはドクダミの中 2023年5月20日

 昭和町源氏ホタル愛護会の鮎川会長が確認したという本年の発生数を転載させていただきます。

5/15(月)2匹 5/16(火)6匹 5/17(水)6匹 5/18(木)?匹 5/19(金)9匹
5/20(土)10匹 5/21(日)7匹 5/22(月)4匹 5/23(火)5匹 5/24(水)5匹
5/25(木)6匹 5/26(金)7匹 5/27(土)5匹 5/28(日)3匹 5/29(月)2匹
5/30(火)2匹 5/31(水)6匹 6/1(木)11匹 6/2(金)8匹 6/3(土)5匹
6/4(日)9匹 6/5(月)4匹

出典 : 杉浦醫院新ブログ 2023.6.6

 館長に伺ったところ、昨年(2022年)のホタルの確認は、5月17日に2匹確認され、31日まででした。ピークは5月24日の11匹でした。本年は昨年よりもやや期間が長く、ピークも数回あることが分かります。

 このホタルは昭和町源氏ホタル愛護会と生涯学習課で3月下旬に庭園内の池に幼虫を放流したものです。300匹の幼虫を放流して、確認できる成虫は一晩に最大で十数匹です。昨年のホタルが産卵して孵った可能性はゼロではありませんが、ホタルが自生できる環境はまだ整わないようです。
 杉浦醫院での放流は、杉浦醫院が開館した2011年(平成23年)から始まりました。2013年(平成25年)からは放流式も行っています。

ホタルの育つ池

 放流された幼虫の天敵はザリガニです。ザリガニにとって、ホタルの幼虫はいい餌食になってしまいます。そうならないよう、館長自ら煮干しを入れた網カゴを仕掛けてザリガニの捕獲するのだそうです。
 やがて幼虫は4月中旬過ぎに陸に上がり土の中でサナギとなり、そして成虫となり水辺で舞います。

放流と周辺への立ち入りを禁じるお知らせ

ホタル合戦

 「ホタル合戦」とは舞ったホタルが空中ぶつかり合う光景で夏の季語にもなっています。鎌田川でもかつて「ホタル合戦」が見られました。大量に飛び交う様が合戦のようであることや、源氏と平家があることなどになぞらえているようです。
 また、「ホタルまつり」が有名で、天然記念物に指定されことをきっかけに昭和6年より昭和32年まで続きました。青年団が中心となって運営し代々引き継がれ続いていたもので、地区ごとに青年団が歌や音楽、踊りなどの出し物をするなどして大いに盛り上がったようです。この地域では「ホタルまつり」のことを「ホタル合戦」と言っている場合もあります。国鉄身延線に臨時電車が出たり、臨時バスが出るほど多くの見物客でにぎわいを見せたといいます。
 作家井伏鱒二の著作の中にも「蛍合戦」(井伏鱒二『新選随筆感想叢書』金星堂 、1939)という鎌田川のホタル合戦の見物を書いた随筆があります。
 さらに「鎌田小唄(蛍小唄)」という当時歌われた歌があります。発表は1931年(昭和6年)で甲府市出身のシュルレアリスム画家米倉壽仁の作詞です。作曲者は不詳。米倉はもともと詩人ではあったものの、なぜこの歌の作詞をしたのか経緯は分かっていません。

釜田小唄(蛍小唄)の歌詞 出典 : 『源氏ホタルと昭和町』

杉浦健造とホタル

 健造博士と三郎博士の医師二代にわたり、献身的に地方病の治療と予防対策にあたってきたことはこれまで紹介しました。

地方病の患者を診る杉浦三郎 出典 : 杉浦醫院

 健造博士は、地方病の有病地にはホタルが多く自生していると、地方病の中間宿主が宮入貝であることが特定される以前から、ホタルと地方病の関係に着目していました。
 1909年(明治42年)にはカワニナに似た貝の生息と地方病の因果関係を示唆する論文を吉岡順作医師と共同で発表しています。1913年(大正2年)の宮入慶之助による宮入貝の発見でこの論文が証明されたことになります。
 健造博士は宮入貝を撲滅することで地方病を根絶しようと考えました。宮入貝をエサにするアヒルやホタルの幼虫などを飼育する施設を敷地内に作り、水田や池に放ち駆除を試みました。こうした活動がやがて官民一体となっての感染予防啓発や宮入貝の駆除へと発展します。しかし、宮入貝の駆除とともにカワニナも駆除されホタルも絶滅へ追いやれてしまったのです。

アヒルによる実験 出典 : 『昭和町今昔アルバム』

 健造博士は、医業の傍ら西条村と常永村(ともに昭和町)の組合村長に請われて就任しています。1930年(昭和5年)に鎌田川の源氏ホタルが国の天然記念物に指定されますが、天然記念物の指定についても組合村長としての尽力がありました。
 次の文書は昭和8年、組合村長として鳩山一郎文部大臣に「発生地保存施設の追加補助申請」です。健造博士の天然記念物のホタルへの関わりが分かります。

追加補助申請 出典 : 『源氏ホタルと昭和町』

 また、杉浦家では毎年蛍見会を開いており、県内の名士を招待し、有名だった若松町(甲府)の芸者を全員呼ぶというたいへんな宴席だったそうです。もっとも健造博士は酒が弱かったといいます。

応接室から見守る健造博士の胸像

洗面室の展示

 医院棟の中に、広い洗面室があります。戦後、地方病について三郎博士のもとへ学びに来た進駐軍の受け入れのために改装した部屋です。ここに杉浦家とホタルに関する資料が展示されています。

 壁にある手ぬぐいは杉浦家がちょっとしたお礼用にと用意していたものです。杉浦家の名とともにホタルが舞う様子がデザインされています。

手ぬぐいとかつての釜田川

 また、天然記念物に指定された頃の鎌田川の様子を写した写真があります。

かつての釜田川の様子を伝える写真
「久方の天の里かとまかふばな・・・」

 ここにはホタルの餌であるカワニナの水槽があってその前に、カワニナと宮入貝の違いの分かる標本を展示しています。また、宮入貝も飼育していて観察することができます。実際に目にした宮入貝は米粒くらいのたいへんに小さな貝です。

宮入貝の容器(左)とカワニナの水槽(右)

 ところで、カワニナも宮入貝も川に生息する巻貝です。ホタルの幼虫は水の中に生息しカワニナをエサとしています。
 宮入貝は小さな巻貝だったため当初、ワカニナの稚貝と思われていました。しかし、宮入貝が7巻の貝であるのに対してカワニナは4巻の貝で別の種類であると、このことを発見した宮入慶之助博士の名から宮入貝と名付けられました。
 下の画像でも宮入貝(左)は成虫であるのに対してワカニナは徐々に大きく育ちます。

宮入貝とカワニナとの比較展示

 ホタルの生活環の解説もあります。

「昭和町源氏ホタルの一生」のパネル

昭和町の源氏ホタルの一生
① 6月・産卵 (たまご)
② 7月・たまごから幼虫になる (ふ化)
③ 7月~3月・幼虫 (カワニナを食べておおきくなります)
④ 4月~5月・上陸 (水から土へ)
⑤ 5月~6月・サナギから成虫に (羽化)
⑥  6月・成虫 (1週間の命)

出典 : パネル展示、昭和町源氏ホタルの一生

 さらに「ホタルまつり」の折りに制作された絵葉書「鎌田川のホタル」(西条ホタル会発行)を拡大したパネルがあります。これによりホタルの成長が分かります。
 (一)がホタルの卵です。メスのホタルが一度に産む卵の数はおよそ500個です。孵化した幼虫は徐々に大きくなります(三)(四)(五)。

(一)卵、(二)卵の拡大、(三)(四)(五)幼虫 出典 : 絵葉書「鎌田川のホタル」

 幼虫は水中でカワニナなどの巻貝などを食べます(六)。ワカニナに頭を入れて捕食する姿はかなりの衝撃です。
 陸に上がり、土に潜りサナギになり(七)、成虫となります(八)(九)。

(6)捕食する幼虫、(七)サナギ、(八)(九)成虫オス、(十)メスの発光器
出典 : 絵葉書「鎌田川のホタル」

絶滅した源氏ホタル

 宮入貝が地方病の原因となる寄生虫の中間宿主であることが判明すると中間宿主である宮入貝を駆除が進められました。
 1925年(大正14年)から石灰などの殺貝剤の散布、また、薬剤による殺貝と並行して、1955年(昭和30年)頃から焼却も進められました。

石灰窒素による殺貝 出典 : 『地方病とのたたかい』

焼却作業 出典 : 『地方病とのたたかい』

 しかし、宮入貝駆除の決定打となったのは、水路のコンクリート化でした。1950年(昭和25年)から用水路のコンクリート化などの農地基盤整備が徹底的に行われました。

コンクリート化の前後 出典 : 『地方病とのたたかい』

 水路をコンクリート化した代償としてホタルの幼虫の餌であるカワニナも生息できなくなりました。野生のホタルは消え、1976年(昭和51年)に天然記念物の指定は解除となりました。
 町内小中学校はすべてが校章にホタルがデザインされています。旧尋常小学校、ベッドタウン化後の新設校とありますがすべてホタルをデザインしています。それは名残ではなく将来のホタル復活への期待のように感じられます。

マンホールの蓋と校章デザイン

昭和町源氏ホタル愛護会

 地方病はすでに終息したものの、甲府のベッドタウンとして宅地が拡大した昭和町において、かつてのようにホタルが生息することは不可能になりました。水資源はよいのですが、宅地化で夜でも町が明るくなった町がホタルにとって住みにくいようです。
 1988年(昭和63年)、昭和町源氏ホタル愛護会を発足させ、現在は幼虫の飼育や放流活動などおよそ70人の会員にてホタルの保護活動を続けています。
 1987年(昭和62年)に町内の山伏川流域でホタルが大発生したのことを契機にホタル復活を目指して発足されました。
 発足から30年が過ぎた2018年(平成30年)、活動内容などをまとめた記念誌が発行されました。本稿はこの記念誌に依るところが大きいです。

『源氏ホタルと昭和町-昭和町源氏ホタル愛護会30周年記念誌-』2018

 医院棟の裏の土蔵の隣にある源氏館は三郎博士の自家用車の車庫でした。
 現在は使用されていませんが、2013年(平成25年)より杉浦醫院とNPO法人によるホタルの幼虫の飼育小屋として使用していました。NPO法人と源氏ホタル愛護会が共同して杉浦醫院の池に放流もしていました。現在の放流活動は源氏ホタル愛護会と生涯学習課で行っています。

源氏館は、車庫を利用した飼育小屋

おわりに

 源氏ホタルの舞ったこの機会に杉浦醫院とホタルについて紹介いたしまし た。
 ベットタウンの昭和町にかつてホタルが自生し、ホタル合戦があったことやホタルが舞っている「記憶」を持つ人は年々少なくなり、ホタルの存在も「記録」のみになるのでしょうか。
 町内はすべての小中学校校章やマンホールの蓋などホタルの図柄を用いています。また、愛護会が活動していることもあり「地方病の記憶」のように今すぐに消える危機はありません。
 ただし、愛護会の高齢化もあり、ホタルの記憶を残す、自生できる環境を作る運動が次世代に受け継がれるかがホタルの「記憶」の行方を決定していくのでしょう。

参考文献
昭和町源氏ホタル愛護会編『源氏ホタルと昭和町-昭和町源氏ホタル愛護会30周年記念誌-』昭和町源氏ホタル愛護会、2018
昭和町風土伝承館杉浦醫院編『地方病を語り継ごう 流行終息宣言から25年』昭和町教育委員会、2022
昭和町教育委員会生涯学習課編『昭和町今昔アルバム』昭和町教育委員会、2007

note記事を収蔵いただいています

 杉浦醫院の学習室に筆者のnote記事を収蔵いただいております。
 杉浦醫院をメディアで有名にした丹治俊樹氏のブログ「知の冒険」やウイッキペディアで秀逸な記事に選出されているさかおり氏の「ウイッキペディア、地方病(日本住血吸虫症)」といった著名な記事の隣に置いてもらいたいへんに恐縮です。
 ネットの記事でも資料として閲覧できるよう残している館の姿勢には驚くばかりです。厚意に恥じぬよう精進いたします。

地方病関係の書籍の並ぶ本棚
ネット記事など書籍化されていないものはファイリングされている
筆者の杉浦醫院の記事2回分


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