【山梨県立博物館】日本最古の「鎌倉殿」を見に行く
はじめに
山梨県立博物館ではシンボル展という企画展示を行うことがあります。
シンボル展とは国宝や重要文化財など貴重な資料を一点に焦点をあて期間限定で展示したり、地域や時代を象徴するような資料を、常設展示から独立した形で展示します。
シンボル展「山梨県指定文化財 木造源頼朝坐像」(2023.1.21~2.20)は、甲斐善光寺の源頼朝の肖像彫刻を展示紹介するもので、現存する最古の頼朝像とされています。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」はすでに放映が終了しましたが、なぜ最古の頼朝像が山梨にあるのか紹介してまいります。
日本最古の鎌倉殿がやってくる
エントランスのチケットカウンターで入場券を購入し常設展示へ向かいます。シンボル展は常設展示の観覧に含まれるからです。
シンボル展としては、頼朝像の一点のみの展示になるのですが、力の入れようが随所に見られます。
常設展示とは別室にシンボル展の会場があります。
場内は鎌倉時代の仇討ち物語として有名な「曽我物語図屏風」をプリントしたパネルを置き、その前に頼朝坐像があるだけです。周囲の壁面に解説パネルがあります。令和2年度に行われた解体修理の解説もあります。
展示室については撮影できませんので、配布資料などから写真を引用して紹介いたします。
甲斐善光寺
甲斐善光寺は甲府市に所在する浄土宗の寺です。1558年(永禄元年)、武田信玄によって創建されました。正式な名称は長野の善光寺と同じく「定額山浄智院善光寺」です。そのため、長野市の善光寺と区別するために甲斐善光寺と呼ばれます。ちなみに最寄りのJR身延線の駅名はそのまま善光寺です。
信玄が川中島の合戦の際、信濃の善光寺が戦火に巻き込まるのを憂慮して、本尊(善光寺如来)や寺宝・僧侶などを甲斐に移したことに始まると伝えられています。(あくまで甲斐側の言い分です)
本堂と山門が国の重要文化財に指定されてます。撞木造りの本堂は東日本最大級の木造建築物です。
善光寺と頼朝
善光寺は平安末期の1179年(治承3年)に全焼しています。理由は諸説ありますが権力争いが背景にあることも指摘されています。その後、1187年(文治3年)頼朝が命じて善光寺は再建され、頼朝自身も1197年(建久8年)に参詣したと伝わります。そうした頼朝と善光寺の関わりから頼朝の坐像が作られたと思われます。そして坐像も本尊、寺宝とともに甲斐へ移されました。
武田氏滅亡後は本尊(善光寺如来)、寺宝は信濃に戻されましたが、坐像は甲斐に残されました。
坐像は頼朝のほか二代将軍頼家、三代将軍実朝もあり境内の御影堂に安置されていたようです。野田市左衛門成方が甲府勤番士の時代に見聞きしたことを後の1752年(宝暦2年)にまとめた『裏見寒話』では「頼朝・頼家・実朝の古い像あり」との記録があります。御影堂については幕末の安政年間の地震で倒壊したようです。江戸時代中期までは三体揃って安置されていた可能性が高いのですが、御影堂倒壊後の頼家の坐像の行方は分かっていません。
頼朝像の姿と構造、顔と体の対照的な表現
さて、展示室に鎮座した頼朝坐像ですが、等身大とのことで写真で見ているイメージよりはるかに大きく感じます。この坐像は、ヒノキ材で作られており、いくつもの木材を組み合わせる寄木造りの技法で作られています。
両手首は失われていますが、笏を持っていたと思われます。
また、目は、玉眼と呼ばれる水晶を目にはめ込む技法が使われています。また、表面は彩色されていたと思われますが、現在ではほとんどが剥落しています。
表情を見ると、両目はやや垂れ下がり、鼻は鷲鼻で目じりのしわまで表現されているほど写実的です。
一方で背面などを見ると体は直線的にがっちりと表現されています。
このような表現の違いは鎌倉時代の武家肖像彫刻に共通する特徴といいます。
像内に残された銘文
解説によると、像の内部は空洞になっています。背中の内側の部材に銘文が記されていました。
「文保3年」(1319年)の銘があることから、源頼朝の最古の彫像といわれています。「正治元年正月13日」という日付も確認されており、頼朝の命日であることから、頼朝の彫像であることは間違いないとされています。
ただし、ところどころ判別できないところがあり、解釈は諸説あるようです。
例えば、二度火事にあった旨の記述があります。火災から持ち出されたものなのか、火災によって再度作り直されたものなのか解釈が分かれています。
甦った鎌倉殿
2020(令和2年)に解体修理が行われました。修理前は玉眼は失われていました。パーツにゆるみがみられ頭部が両肩に沈み込むようになっていいました。
修理により、玉眼は水晶により補われました。また、パーツのゆるみと沈み込んでいた頭部の位置が調整されました。
科学調査で判明したこと
修理によって、年輪年代測定や放射性炭素年代も行われました。
それによりますと、体の木材が1318年(文保2年)秋頃~1319年(文保3年)春頃の伐採とされました。頭部の採色や漆の年代は14世紀初頭~15世紀初頭とされ、木材の伐採については11世紀以降に留めるとしました。
実朝坐像についても先立つ2018年(令和元年)に修理と調査が行われました。
実朝像の木材は1222年(承久4年)以降伐採されたもので、実朝は1219年(建保7年)に亡くなっていますので、実朝死後に早い時期にこの像が制作されたと思われます。それに合わせて、頼朝像や頼家像も制作されたのではないかと推測されています。
現存最古の頼朝像
制作時期が中世までさかのぼれる頼朝像は少ないです。
鶴岡八幡宮の白幡神社(現在は東京国立博物館で所蔵)の伝源頼朝坐像(13~14世紀)がありますが、第5代執権の北条時頼である可能性が指摘されています。
また、京都神護寺の伝源頼朝像はとくに有名ですが、足利直義を描いたとの指摘があります。
こうした中で、甲斐善光寺の頼朝坐像は頼朝であることが確認できるうえに、制作年代が鎌倉時代にまでさかのぼれることから、最古の頼朝像といえるのです。
おわりに
信玄により、甲斐へ移された頼朝像ですが、なぜ頼朝や実朝の像が信濃善光寺に返還されなかったのかそのあたりは謎のままです。
それでも、令和の修理により甦った坐像はそれだけで鎌倉殿の風格をもっていました。
先に修理を終えている実朝坐像も解説だけではなく展示してもらえれば、鎌倉殿のそろい踏みが見られたのにそれだけが残念でした。
参考資料
山梨県立博物館「シンボル展示 山梨県指定文化財 木造源頼朝坐像」リーフレット、2023