【山梨県立考古博物館】特別展「発掘された日本列島2023」を見に行く
はじめに
この秋で開館40周年を迎える山梨県立考古博物館では、文化庁主催の「発掘された日本列島2023」(2023.9.16~10.29)が開催されています。この展示は、近年発掘調査が行われた中で特に注目された遺跡や出土品を中心として展示を構成するものです。山梨開催は実に27年ぶりとのことです。
山梨以外の会場としては、対馬博物館(2023.11.11~2024.1.8)、さらに「アフター発掘された日本列島2023」として平城宮いざない館(2024.1.20~2.11)が予定されています。
発掘された日本列島2023
「発掘された日本列島」は、1995年(平成7年)より始まり、今回で29回目となる展示です。
内容は「我がまちが誇る遺跡」「新発見考古速報」「遺跡から読み解く多様な歴史文化」の3章で構成されます。また、山梨展では、県内の国指定の史跡について紹介する展示があります。
チケットカウンターの周辺もバナーなどで装飾されています。
チケットカウンターの前には、第2章で登場する北大竹遺跡(埼玉県行田市)の集落跡から出土した土器と子持勾玉が迎えてくれます。
第1章 我がまちが誇る遺跡
「我がまちが誇る遺跡」は、継続的な発掘調査による積み上げてきた成果を紹介する展示です。昨年は筆者が度々訪問している長野県富士見町の井戸尻考古館の取り組みが紹介されました。
今年は、
「仙台湾の貝塚」宮城県
「日本窯業の源流」愛知県名古屋市
「物部氏の足跡と幻の西京の面影」大阪府八尾市
を紹介しています。
1_1 仙台湾の貝塚-全国屈指の貝塚密集地帯-
縄文時代の貝塚から発掘された資料の紹介です。
仙台湾は福島県相馬市から宮城県の男鹿半島までのおよそ130キロメートルの湾です。この辺りは全国屈指の貝塚の密集地帯として知られています。
その中から、里浜貝塚、南境貝塚、沼津貝塚について最新の研究から紹介しています。
里浜貝塚は、仙台湾の支湾である松島湾に所在します。
縄文時代前期から弥生時代にかけての日本最大級の貝塚です。土器、石器、骨角器などが発見されています。そのうち縄文時代後期から晩期の資料を展示しています。
南境貝塚も仙台湾の支湾である石巻湾の奥にある北上川東岸の丘陵上に所在します。
縄文時代中期から後期にかけてのハマグリを中心とする貝塚です。銛頭は「南境式」と呼ばれるほど特徴的な形をしています。
沼津貝塚は、北上川の下流域にあった古稲井湾に面する、縄文時代前期から弥生時代にかけての貝塚です。
時代を経るにつれて、貝がハマグリからアサリ、ヤマトシジミへと変化ししており、周辺の環境に変化があったと考えられます。
これらの貝塚よりまず初めは骨角器の展示です。南境貝塚と里浜貝塚の銛が展示されています。下記画像左が南境貝塚の「南境式」です。
画像右鳥形骨器は、沼津貝塚と南境貝塚のものです。
続いて、石斧があります。南境貝塚のものです。きれいに磨きあげられています。
続いて、土器などの土製品となります。
こちらは、里浜貝塚から縄文後期の深鉢や壺です。
こちらは沼津貝塚から縄文中期の深鉢です。
南境貝塚の深鉢と土偶です。
土偶の頭ですが、土器の口縁部の装飾である可能性もあるといいます。
貝塚の調査方法や、調査から分かる縄文人の暮らしやなどがパネルにして紹介が続きます。
里浜貝塚の調査方法は層を細かく分ける微細層位という発掘方法によると紹介があります。気の遠くなる作業があったいいます。
1_2 物部氏の足跡と幻の西京の面影
大阪府八尾市より、物部氏に関連する遺跡・出土品の最新の調査・研究成果を紹介しています。古墳時代から奈良時代にかけての出土品が展示されています。八尾市は面積の7割が遺跡だといいます。
物部氏といえば仏教受容巡り蘇我氏との争いに敗れた古代の豪族です。
八尾市では令和4年「八尾市文化財保存活用地域計画」を策定し、点在する文化財をストーリーでつなぐ3つの関連文化財群を指定しました。
「山ろくの古墳に眠る豪族たち」
「物部守屋、弓削道鏡の仏教の関わりと寺院の建立」
「寺内町の成立と在京町への展開」
です。
市内河内湖の南岸にある久宝寺遺跡があります。久宝寺遺跡からは大型掘立柱建物群が見つかっています。建物は6世紀中頃が2棟、6世紀後半が6棟確認されています。これが物部氏の居館跡ではないかと考えられています。
遺跡から出土した須恵器類が展示されています。
物部氏の台頭した6世紀後半に、郡川西塚古墳と郡川東塚古墳が造営されています。この古墳が物部氏配下の墓群と考えられる高安千塚古墳群の造営にきっかけとなったいいます。
郡川西塚古墳の埴輪の一部が展示されています。
古墳群のうちの黒谷10号墳より土師器による鉢などです。
また、大石古墳の須恵器の装飾器台は大きさに驚かされます。
大石古墳は6世紀後半の古墳で石室の奥に装飾付器台があり、ほかに有蓋高盃など大量の須恵器製品が石室より見つかっています。
また上部の装飾も𤭯(下部が丸く穴のあいた壺)、短径壺、その間には鳥がいます。
大石古墳の須恵器の高盃と蓋です。
蘇我氏との争いに敗れた物部守屋ですが、その所有地に建てられたのか中河内最古の寺院となる渋川廃寺です。平成29年に創建時の瓦や須恵器が出土しています。
鴟尾と瓦、土師器などが出土しています。
弓削道鏡は物部氏の一族である僧で、称徳天皇とともに弓削寺を整備し、仏教中心とする「西京」の造営を進めました。仏教により物部氏の復権を夢見ていたのでしょうか。称徳天皇が亡くなると西京の造営は中止されました。
弓削寺は幻の寺と呼ばれていましたが2017年(平成29年)、七重の塔と思われる大型基壇が発見されたことで実在が確認されました。
弓削寺跡の瓦や須恵器です。
また墨書土器などからも寺院の存在が明らかになったといいます。
1_3 日本窯業の源流-猿投窯と名古屋の焼き物文化-
瀬戸物など日本窯業生産の中心である愛知県ですが、窯業のルーツは意外にも名古屋にあった猿投窯と呼ばれる地域であり、古墳時代から鎌倉時代まで20キロメートル四方に1000を超える窯が作られていたといいます。猿投窯を通して名古屋と焼き物文化の源流に迫る展示です。
猿投窯は、1954年(昭和29年)に発見されたですが現在までに80基以上の窯が確認調査されています。猿投山の西南部に広がった古窯跡から猿投窯と名付けられました。
古墳時代から始まり須恵器を生産していた猿投窯ですが、9世紀になると中国陶磁器の影響を受けた緑色に発色する緑釉陶器の技術が畿内から伝わります。猿投窯の製品は高級品として全国に流通します。
一方で緑釉陶器より容易にできる灰釉陶器を猿投窯から開発しています。灰釉陶器は日本各地に流通していきました。
1972年(昭和47年)に調査されたH-G-101号窯の製品です。壺、香炉、仏器のほか、軒瓦、軒丸瓦なども生産されていました。
こちらにも、盃、高盃、蓋などの須恵器が並びます。1976年(昭和56年)に調査されたI-101号窯の製品です。
伊勢山中学校遺跡は集落跡で、須恵器が多数出土していますが、最も古い猿投窯の須恵器と考えられるといいます。
第2章 新発見考古速報
「新発見考古速報」では縄文時代から近世まで最新の発掘成果のうち全国的に注目された10遺跡を紹介しています。
大久保貝塚(宮城県南三陸町)
惣ヶ池遺跡(大阪府和泉市)
ウワナベ古墳(奈良県奈良市)
下里見天神前遺跡(群馬県高崎市)
佐良山古墳群(岡山県津山市)
北大竹遺跡(埼玉県行田市)
飛鳥京跡苑池(奈良県明日香村)
立部遺跡・立部古墳群跡(大阪府松原市)
騎西城跡・騎西城武家屋敷跡(埼玉県加須市)
郡山城跡(奈良県大和郡山市)
2_1 大久保貝塚(宮城県南三陸町)
大久保貝塚は縄文時代晩期の貝塚です。志津湾奥部にあり、国道の復旧と河川堤防建設のため令和元年~2年に発掘調査が行われました。
縄文時代晩期中葉から後葉にかけて形成された貝層・遺物包含層(ゴミ捨て場)で、当時の人々の狩猟、漁などの生業を知ることのできます。
縄文時代晩期の層からは貝殻、骨、食料の残滓のほか、生活道具として、土器、石器、骨角器が出土しています。また、土偶、土面、石棒など祈りの道具と思われるものも出土しています。
土器は上部貝層を中心に縄文時代晩期中葉~後葉の土器が多量に出土しています。
土面など土製品、編布で覆われたアスファルト塊もあります。
石皿のほか石棒などの祭祀用品です。
骨角器は箆、ヤスが多く、銛頭( もりがしら),釣針、鏃 やじり なども少量見られるほか,装飾品も多数出土しています
2_2 惣ヶ池(そうがいけ)遺跡(大阪府和泉市)
惣ヶ池遺跡は弥生時代後期中葉の高地性集落跡です。
小形仿製鏡と呼ばれる、青銅鏡が見つかっています。中国(前漢時代)でつくられた青銅鏡を真似して、国内でつくられた青銅鏡だそうです。近畿地方で見つかった同種の青銅鏡としては最古級となります。
鏡背部の模様が劣化により不鮮明であったものを3次元計測の応用による画像処理で中国(前漢時代)の鏡を真似た模様が確認されたとのこと。
大型の竪穴建物の跡が確認されていて、壺や高坏などの弥生土器のほか砥石、敲石など石器が発見されています。
2_3 ウワナベ古墳 (奈良県奈良市)
ウワナベ古墳は平城宮の北側に分布する古墳群です。5世紀前半の造成された大型前方後円墳です。墳長は255メートルとあります。墳丘部分が宮内庁管理のためか撮影は出来ませんでした。
2020年(令和2年)、橿原考古学研究所、奈良市、宮内庁が同時に調査しました。宮内庁による墳丘からは墳丘最下段が確認され、橿原考古学研究所、奈良市などの調査からは墳端を確認し、全長270~280メートルになることが分かりました。
2_4 下里見天神前(しもさとみてんじんまえ)遺跡 (群馬県高崎市)
下里見天神前遺跡は、群馬県の中南部にあり、この地域は古墳が多く造成され古墳群を形成しています。そのうち新たに古墳時代後期の円墳3基を確認したものです。
そのうちの1基である3号墳の墳丘と周溝から埴輪が出土しました。それぞれ種類ごとに積み重ねられた状態で発見されていて、未使用だったとみられます。埴輪は23点(馬形埴輪1、人物埴輪1、朝顔形埴輪4、円筒埴輪17)と須恵器2点でした。
2_5 佐良山(さらやま)古墳群 (岡山県津山市)
佐良山古墳群は、岡山県の津山盆地の南西部にある6世紀中頃から7世紀中頃の古墳群です。
桑山古墳群、桑山南古墳群、細畝古墳群、高尾北ヤシキ古墳の市群などに分けられます。
その桑山古墳群については、6世紀中頃の円墳が5基(1号古墳から5号古墳)と箱式石棺墓1基、土器棺墓1基で構成されています。
桑山1号墳の須恵器、2号墳の耳環、3号墳の玉飾りなどがあります。
桑山5号墳からは装飾器台が出土しています。
2_6 北大竹(きたおおたけ)遺跡 (埼玉県行田市)
北大竹遺跡は、埼玉古墳群の北2.5キロメートルに位置する6世紀中頃から9世紀後半にかけての集落跡です。
古墳時代後期から飛鳥時代にかけての祭祀遺構が3か所確認されました。
祭祀遺構は6世紀中頃から後半、7世紀初頭、7世紀中頃と3期にわたるといいます。
6世紀中頃から後半の祭祀遺構からは、多数の壺が出ています。
また、6世紀中頃から後半からは、単鳳環頭太刀柄頭も出ています。単鳳環頭大刀とは古墳時代後期~終末期の儀杖用の飾大刀と考えられています。
各時代ごとの祭祀遺構から子持勾玉が出ています。
7世紀中頃の祭祀溝からは、子持勾玉のほか、円盤型、剣型、斧型の石も出ています。
2_7 飛鳥京跡苑池(あすかきょうあとえんち) (奈良県明日香村)
飛鳥京跡苑池は、飛鳥時代の庭園跡だといいます。
パネルのみの展示です。ピントズレ画像も一部ありますが、ご容赦ください。
庭園の池の範囲は南北280メートル、東西100メートルに及びます。二つの池(南池・北池)が仕切られており、水路、掘立柱建物、掘立柱塀で構成されていたといいます。
南池と北池の解説です。池の内部は石積みで整えられています。
2_8 立部(たつべ)遺跡・立部古墳群跡 (大阪府松原市)
立部遺跡は、古代の幹線道路と考えられる長尾街道と竹内街道に挟まれた位置に所在します。北に500メートルの距離には5番目の規模を誇る河内大塚山古墳があります。
古墳時代中期から平安時代前期の遺跡で、長期間にわたり続いた土豪の墓地ではにいかと思われます。方墳、円墳のほか、土坑墓、火葬墓、木棺墓が見つかっており、400年続いた墓跡です。
方墳からの出土物した、甲冑型埴輪と円柱型埴輪の一部です。
大きな須恵器は、奈良時代の火葬墓からの蔵骨器です。
平安時代初頭(9世紀前半)の火葬墓に埋納されていた、須恵器の壺と蓋ですが、蔵骨器だといいます。火葬された骨が良好な状態で残っていたといいます。蔵骨器内部の状況の確認にはX線やCTを取り入れた旨がパネルで紹介されています。
こちらは平安時代の土抗墓からです。土師器の皿、盃、壺などです。
2_9 騎西城(じょうさいじょう)跡・騎西城武家屋敷跡 (埼玉県加須市)
騎西城跡・騎西城武家屋敷跡は加須市根古屋に所在する戦国時代から江戸時代初期にかけての城跡です。土塁や塀で囲んだ平城のはずですが、史実に基づかない模造天守「騎西城」が建っています。(山梨県内にも歌舞伎文化公園に模造天守の例あり)
北条方の城でしたが、上杉謙信に攻め落とされた城跡です。
謙信の攻撃があった頃に造られたとみられる北条方の城に見られる「障子堀」といわれる特殊な堀跡が発見されています。
また、上杉方が使用したとみられる兜や馬具、火縄銃の部品・弾丸、金貨などが発見されています。
十六間筋兜です。戦国時代の兜で錣、吹き返しなどの装飾が残った状態で発見された珍しい例です。形から上杉方の武将が着用していたものと考えられるといいます。
他にも金属製の馬具のほか短刀などがあり、戦の跡がそのまま土の中に残されていたようです。
他に火縄銃の部品や弾丸
2_10 郡山城(こおりやま)跡 (奈良県大和郡山市)
郡山城跡は、戦国時代からの城郭で国指定の史跡に指定されています。織田信長の時代に筒井順慶が築城し、豊臣の時代に豊臣秀長が大規模な整備を行い、豊臣滅後は水野氏、松平氏、本多氏、柳沢氏らが城主となっています。「続日本100名城」にもなっています。天守台は豊臣氏が治めていた時代のものです。
展示の内容は二の丸にあった二の丸屋形の発掘調査のものです。
軒瓦、軒丸瓦がありますが、どちらも金箔の残る瓦です。二の丸屋形など天守以外の建物にも金箔瓦が使われていた可能性が高いといいます。
底に墨書のある火入れです。火入れとは煙草を吸うためキセルに火をつける灰を入れる容器です。「享和二年 御番頭附 戌四月」とあります。
焼塩坪が多数展示されています。焼塩坪とは塩を詰めてそのまま焼いて食卓用の調味料として販売した器とのこと。火入れとともに生活の様子が見えてきます。
第3章 特集 遺跡から読み解く多様な歴史文化
遺跡から読み解く多様な歴史文化として、オホーツク海沿岸と南島の歴史文化をパネル展示にて紹介しています。
パネルをそのまま掲載します。ピントズレ画像も一部ありますが、ご容赦ください。
3-1 オホーツク海沿岸の人々
オホーツク海沿岸は竪穴建物が埋まり切らずくぼみの状態として確認できる独特の景観とあります。
3-2 海上の道
琉球列島は海上交通の要所であり、その特徴を反映した奄美のグスクと関連する遺跡に注目とあります。
山梨の史跡
山梨会場として、県内に15か所ある国指定の史跡を紹介しています。
富士山が世界文化遺産に登録され本年で10年となりましたが、富士山は国指定の史跡でもあります。また、甲斐国分寺跡は史跡指定から昨年で100年となりました。そうした山梨の史跡を紹介するとともに、発掘の状況や市町村の取り組みを史跡ごとにパネルボードに貼って紹介しています
市町村の教育委員会などが用意している考古関連のリーフやチラシが一同にあります。
15件の史跡の名前だけ紹介します。地名は所有者または管理者です。
・甲斐銚子塚古墳 附丸山塚古墳、山梨県
・梅之木遺跡、北杜市
・金生遺跡、北杜市
・甲斐国分寺跡、笛吹市
・甲斐国分尼寺跡、笛吹市
・白山城跡、韮崎市
・谷戸城跡、北杜市ほか
・勝沼氏館跡、甲州市
・要害山、甲府市
・武田氏館跡、甲府市及び武田神社
・甲斐金山遺跡、甲州市・身延町
・新府城跡、韮崎市
・富士山
・御勅使川旧堤防(将棋頭・石積出)、韮崎市・南アルプス市
おわりに
さすが「発掘された日本列島」の展示は分量も情報量もたいへん多い展示でした。
貝塚に関する大きな展示が2件ありました。海なし県の山梨で貝塚を大きく扱う展示はほとんどありません。本展では古墳時代に関する展示が多く含まれていました。山梨県立考古博物館こそ周辺は古墳群で盆地周辺は古墳がありますが、県内全体では中部高地の縄文の遺跡が圧倒的で展示機会も縄文関連が多いのです。
筆者も普段はあまり機会のない貝塚や古墳時代の発掘資料に県内にいてふれられるよい機会となりました。
あと、会場はたいへんに空いています。時間帯によっては独り占めです。ゆっくり静かに見たい方は足を延ばされてはいかがでしょうか。車なら中央自動車道の甲府南インターの前です。途中釈迦堂博物館にも直結で立ち寄れます。