【昭和町風土伝承館杉浦醫院】地方病の「記憶」を伝え残す資料館(4) 第1回地方病を語る会
はじめに
昭和町風土伝承館杉浦醫院が中心となり、2022年3月『地方病を語り継ごう―流行終息宣言から25年-』を発刊しました。
この本は地方病(日本住血吸虫症)の終息宣言から25年になるのを期に関係者の体験記や寄稿を集めたものです。
また、発刊を記念し「第1回地方病を語る会」(2023.7.3)が開催されました。体験記を寄せた方の生のお話を伺うという内容で筆者も参加してまいりました。
あらためて、地方病を語り継ぐ、伝え残す取り組みについて触れたいと思います。
地方病(日本住血吸虫症)と杉浦醫院についてはこちらをご覧ください。
流行終息宣言
1996年(平成8年)2月19日に地方病流行の終息宣言が山梨県により出されました。県が終息宣言を出した理由として、1978年(昭和53年)を最後に新規患者が確認されていない。1976年(昭和51年)を最後に中間宿主になる寄生虫に感染した宮入貝が発見されていない。この2点によります。
これにより地方病対策は宮入貝の殺貝事業から5年間の監視事業へ移行しました。
2002年(平成14年)昭和町押原の源氏蛍発生地公園に終息宣言の碑が建てられました。現在は杉浦醫院に移設されています。
「地方病を語り継ごう」
地方病の流行終息宣言から25年が過ぎ、地方病の「記憶」を持つ人は年々少なくなり、地方病は「記録」のみになりそうな状況にあります。そうした現状もあり、節目を迎え昭和町教育委員会と杉浦醫院は関係者の証言や寄稿を集め、2022年6月『地方病を語り継ごうー流行終息宣言から25年ー』を発刊しました。
地方病体験記には48人の手記が載せられています。後半は医療関係を始め各分野の関係者からのなどからの寄稿文で構成されています。
そのチラシに、筆者の心を捉えた言葉がありました。
「(略) その記憶を後世に伝え、経験を生かしつづけるために、(略) 」(太字は筆者)
地方病に115年かそれ以上の長い戦いの歴史がありますが、残すべきは「記録」ではなく「記憶」なのです。そして「活かす」のではなく「生かす」とあります。地方病の記憶と経験を過去のものとせずに、生きたものとのして残そうとする杉浦醫院の地方病伝承館としての姿勢が現れているのです。「記憶を生かす」ことこそふさわしい表現であると感じました。
巻末の資料や年表も充実しているため、「地方病」に関する調べものをするうえでたいへん助かりました。価格は300頁のボリュームで破格の1,500円(税込)です。
ところで『地方病を語り継ごう』は、1979年発刊の『地方病とのたたかい(体験者の証言)』に続く証言集です。こちらでは、終息宣言はまだ出ていない時代であり、また証言されている方たちも現役世代でした。インタビュー形式で方言交じりの生の声が生き生きと文字で残されていました。それからおよそ40年が過ぎ、存命中の証言者は少なくなくなりました。
体験者による証言集の発刊は最後になるのではないかと危惧されてるほど、今回の体験者の方たちは高齢です。
また、医療や衛生の関係者も亡くなったり高齢であったりとこの先の危機感を感じるものがあります。
ちなみに、『地方病とのたたかい』は三部作となっています。
山梨地方病撲滅協力会編『地方病とのたたかい』1977
山梨地方病撲滅協力会編『地方病とのたたかい(体験者の証言)』1979
山梨地方病撲滅協力会編『地方病とのたたかい(日本住血吸虫病・医療編)』1981
です。もともと非売品のため流通はしておりません。筆者は図書館で借りてまいりました。参考に画像を載せておきます。
第1回地方病を語る会
『地方病を語り継ごう』の発刊を記念し、「~次世代に語り継ぐ~第1回地方病を語る会」が2023年7月2日、杉浦醫院で開催されました。『地方病を語り継ごう』に手記を寄せていただいた中からお二人の方に直接お話をしていただくという内容です。サブタイトルの「次世代に語り継ぐ」こそ重要かと思います。
若い世代は地方病そのものを知りません。筆者も地方病の名は聞いたことはあっても、詳しいことは知りませんでした。直接地方病の体験を伺う機会はまずないので貴重な機会になります。会場は杉浦醫院2階の学習室です。
参加者は満員のおよそ30人、年代構成としては、多くが年配の方たちで、2割か3割ほどが直接知らない世代といった印象です。
冒頭進行役の館長から挨拶がありました。本の紹介と地方病の生の声を聴いていただく機会を設けたこと、また今後も継続していくことなどです。
今回お話をいただいた二人は80代、90代とたいへんご高齢にも関わらず、それぞれ30分の持ち時間で語っていただきました。そのあとの補足や質疑応答があり、筆者の理解で以下にまとめました。
「私と地方病」昭和町在住のSさんのお話
昭和町在住のSさん(92歳)は、小学校3年生で地方病に罹いました。杉浦醫院で治療薬のスチブナールの注射を20本打って治ったといいます。
そして3回くらい杉浦醫院に罹ったと。つまり1度治ってもまた2度3度と地方病に罹るのです。
昭和6年生まれのSさん、男の労働力を戦争に取られ、農家では子供といえど「一人前」の労働力だったといいます。
こんなエピソードも。年に2度ほど宮入貝を学校で採っていたといいます。非常に小さい貝なので泥を指先で転がして取り分ける。そして学校へ提出すると誰が何匹採ったか発表するのだそうです。お聞きしていて素手で扱って大丈夫なのか心配になります。
宮入貝の駆除については殺貝剤として石灰チッソを使ったそうです。しかし、値段が高いのです。しかも農家にしてみると石灰チッソはいい化学肥料になるから駆除よりも畑にまいてしまう人が現れます。これでは効果が上がらない。そのあとはもっと強い薬剤が使われました。
一番効果があったのが、水路をコンクリート化したことでした。Sさんもコンクリート化の工事に従事しました。そしてコンクリート化が完成した時には村(昭和村)でお祝いをしました。
「祖父母が地方病に」中央市在住のIさんのお話
中央市在住のIさん(86歳)は、まず、腹水で腹が膨れる患者の辛さを語りました。地方病の患者は肝臓をやられると妊婦さんのように腹がふくれます。お腹は張っててかてかと光っていて、手足は栄養が足らずにやせ細っていきます。
Iさんは祖父母に育てられた家庭です。まず、明治16年生まれの祖父が地方病にかかり腹水が溜まっていきました。そして何よりその腹水を抜くことが死につながるのです。腹水はつらいけれど抜けば死ぬ、それを祖父の姿から見ていました。
頑なに腹水を抜かない祖父に、抜いて楽になればと言ったIさん。孫に言われて、祖父は腹水を抜きます。だんだん濁った水が洗面器にひとつとれます。まるでぞうきんを絞るというように最後まで絞り出すのです。これで一旦は楽になるのですが、いずれまた腹水がたまり、3度目の腹水を抜いたあと祖父は無くなったそうです。昭和32年でした。
明治18年生まれの祖母の看病は腹水は溜まらなかったものの吐血と下血で熾烈なものでした。最近はヤングケアラーが問題になっていますが、嫁に行った姉が昼間は看病に来て、Iさんは18歳から勤めに出てました。Iさんが働きに行かないと貧しくて祖父母の葬式を出すにもお金がないのです。Iさんは家に帰ってくると祖母の看病です。下血したおしめを洗うと川の水が真っ赤に染まり、また匂いも相当なものだったといいます。昭和34年の伊勢湾台風で家が被害受けたが、畳を敷いて祖母を寝かすと翌日息を引き取ったそうです。
「中郡には嫁にやるな」ともいわれたほどこの辺りは患者が多かったのです。Iさん自身も地方病に罹っています。小学校4年生くらいのとき血便が出て、検便で寄生虫の卵が見つかり、学校へ行く前に甲府市大里の三神医院(現存)にて21回スチブナールを打って回復したといいます。
学校農作業の手伝いや川で遊ぶと回復してもまた地方病に罹ります。大人が「川に入ると地方病になっちもうぞ」と言われても子供たちは川に入るのです。
また、Iさんは平成3年からの5年間宮入貝の生息調査員というのを町(旧玉穂町)から嘱託されていて、宮入貝を発見しては町に報告していました。ちょうど県による地方病流行終息宣言が出される時期でした。Iさんの担当地域では宮入貝の生息は確認されていませんでしたが、まだいる地域もあり時期尚早と思ったと言います。
参加者のお話
質疑応答の中で、自身の地方病体験に重ね合わせてお話をする方が何人もおられました。次の世代とはいいながらも、地方病の経験者が実は多く集まっており、本へ体験を寄せた方が何人もおられました。
ある方は小学生の時に3回罹った、20本~25本の注射で回復した。思えば現代よりもずっと生活水準が低く、ゴム長で田へ入るとかではなかったからです。 また、ある方は罹ったけれど症状が軽く後遺症もなかったとお話されていて症状の個人差が伺えます。
こんな質問がありました。大人から川で遊ぶな水に入るなと言われても入るのは何故か。それについては、繰り返しになりますが、子供でも一人前の労働力であり田に入らなければならないのです。
さらに質問は、地方病に罹ると死に至るという恐怖や緊張感が生活にはなかったのかというものです。
死を感じるということはない。それよりも農作業を手伝わなければならない。農繁期には学校が休みだった。おまけに周囲は地方病だらけで罹っている子供も多く、先ほどの川遊びも危険とは感じていないかったそうです。みんな地方病だから罹ってもイジメになどならないそうです。
杉浦醫院の三郎先生はどんな存在に感じていたかといった質問もありました。
質問や発言は地方病を患ったり身近に感じていた方たちの想い話や共通の話題として展開することが多く、まさに地方病を語る会になっていて、やや若輩では分からないところもありました。でもそこは、館長が補足的に質問するなどして下さっていました。
1時間30分の会は盛況のもと終了しました。第2回は12月3日を予定しています。
最後にSさんは、このような病気があったことを忘れないでほしい。悲劇が再び起こらないことを願う。と言われました。
Iさんからは、この病気は重い病気だったと感じている。実際にあったこの話を子供たちに伝えてほしい。と言われました。
出前授業
杉浦醫院の公式ブログ「もみじだより」によれば近隣の小学校へ出向いて出前授業を行ったという投稿を見かけます。
若い世代が地方病を知らないので小学校へ館長が出向いて地方病について授業をするのです。まさに次世代語り継ぐ活動を館長自らされています。
館長に案内いただいたおり見せていただいたこの機械は宮入貝の殺傷駆除に使った火焔バーナーだというのです。出前授業では冒頭これを見せて「何に使ったものか」と児童たちの関心を引きだすのだそうです。
2022年度は中央市、甲斐市、南アルプス市の8校20クラス(4年生)で出前授業を行ったそうです。昭和町の3小学校6クラスについては出前授業ではなく、見学として杉浦醫院に訪れるそうです。
2021年度は15クラスだったそうなので、年々増えています。
チャットGPTと地方病
すっかり話題になったAI(人工知能)のチャットGPTですが、質問をすれば的確な回答を文章で返してくれるという便利で夢のような機能が実現されているのですが、その半面、情報の足りないものについてはあたかも正答のような虚偽の内容を作文することもよく知られております。
筆者が「地方病撲滅に尽力した杉浦健造医師とは?」と尋ねたところ実に珍妙な回答を作り出しました(下記に転載)。杉浦健造博士は「イタイイタイ病」「水俣病」に取り組んだ医師ということにされています。さらに、「地元の住民を対象にしたカドミウム中毒の予防教育」いったと独自のストーリーが作られました。
このような虚偽の回答を作りだすのは、AIの学習データに地方病(日本住血吸虫症)の情報がほとんどないということの現れであり、AIが学習するうえでのデジタル化された情報がないということだと思うのです。
筆者はnoteを活動の場としていますが、過度のデジタル化は好みません。調べものは図書館をよく利用しますし、メモは紙と鉛筆です。
それはともかくとして、チャットGPTにはまだまだ届いていない分野があることが分かり少し安心すると同時に、地方病が世間では知られていないということを改めに認識し複雑な心境になりました。
おわりに
「地方病を語る会」を中心に地方病を伝え残す杉浦醫院の活動を紹介しました。「語る会」が第2回、第3回と続けていくうちに地方病を知らなかった世代の参加が増えていくことを願っています。そうした世代の人からの質問や発言なども増えるていけばこの先よいものになるのではと思っております。
筆者も微力ながら「記憶」を残す活動に賛同し今後も発信して参ります。
参考文献
山梨地方病撲滅協力会『地方病とのたたかい(体験者の証言)』山梨地方病撲滅協力会、1979
山梨県衛生公害研究所、梶原徳昭『地方病とのたたかいー地方病流行終息へのあゆみー』山梨地方病撲滅協力会、2003
昭和町風土伝承館杉浦醫院編『地方病を語り継ごう-流行終息宣言から25年-』昭和町教育委員会、2022
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