【‘‘誰しもが表現者になりうるもの’’】
今の自分がこうして、noteというプラットホームの中で物を書いているということは数年前、十数年前までは想像もしていなかったことである。
noteを書くきっかけになったのは、自分の中のモヤモヤとした感情を言葉で表現したいとそう思ったからだと思います。
話すのが苦手な自分にとって、書くことの方が自分に合ってると思いますし、書くのが苦手でむしろ話すことの方が得意という方はYouTubeやVoicyといったメディアで自分を表現する人たちもたくさんいます。
XやInstagram、TikTokにいたっても自分を表現する手段として使って皆、自分を表現者として形に残している。
今の時代は、誰しもが表現になりうるものだというのが私なりの考えであり、自分はこういう人間ですということをメディアを使って表現することで無意識的に繋がりを作ろうとしている。
私もその中の一人であるし、自分の中にある価値観を知ってもらい、それに対して共感してもらうことに喜びを得るところがあるのかもしれません。
例えば、Xで鍵垢を使って、誰も見ないところで壁打ちをしてもそれは自分しか見ていない誰もいない孤独な世界の中で言葉をひたすら綴っても何も面白くないし、自分以外の人たちからの言葉をもらいたくて、何でもいいことをつぶやいたりして反応をもらえるのを楽しみにしているところもあったりします。
小規模や大規模の中で、何かを表現してる人たち、皆私たちは表現者であると思います。
見ていてる人たちの数というものは関係なく、自分を表現する場所を持っている人たち、それは全員、表現者であると私は考えています。
自分が表現者であるという自覚し始めたのはXやnoteを開設してから半年ぐらい経ってからだと思います。
自分が思ったこと、考えたことを短文や長文にしてまとめたことに対して、自分の知らない人から返事が返ってくることは多少の緊張感はあるもののやはり嬉しさの方が勝るものがあります。
辛かったことや悲しかったことに対して、事情を察してもらい、優しい言葉を投げ掛けられたことでどれだけ救われたことか私はSNSで何度か救われた自分がいます。
中には、人によっては自分の承認欲求の為に、誰かを容赦なく痛め付ける人も存在しますし、そうした人たちが書いたものを見ると胸が痛い思いになってしまいます。
SNSは本来、誰かを傷付ける為にあってはいけないものだと思いますし、自分の分身を作って自分を表現する特別な場所であるという認識が私なりの考えであったりします。
数年、数十年後先の未来に、自分が今もこうして物を書いているかという自信はないし、書くことが好きで自分の中でまだまだ書きたいこと、表現したいことがあるからこそ継続出来ているところがあると思うのです。
創造することもまた、表現者である証でありますし、自分にとって得意なことを活かした様々な表現手段があっていいものだと私は考えています。