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【感想】映画『悪は存在しない』

以前から、ずっと見たかった映画をようやく見に行ける時がきて、ミニシアターでしか上映していなかった滝口竜介監督の最新作『悪は存在しない』を見ました。
物語の概要を大まかに説明する前に『悪は存在しない』という映画は前作『ドライブ・マイ・カー』に次ぐ難解な実験映画であり、滝口監督の作品における特徴は以下の二点であって、それは独特な会話劇とカメラワークによるものだと思います。
ストーリーとしましては、水挽町という自然豊かな土地を舞台に巧と娘の花は静かな生活を過ごしていて、ある日、グランピング場の設営計画が持ち上がって、芸能事務所による政府からの補助金目的の計画が絡まり合い、森の環境や町の水源を汚しかねない計画に町内の人たちは動揺する中で不穏な空気感が生活を包み込み、異質な日常へと変わっていくところが本作の見所でもあると思いました。
自然の摂理に悪は本当に存在するのか。
または、悪は存在しないということはあり得ないのではないかという疑問。
カメラワークと会話劇だけではなく、ラストに向けた巧と花、高橋の運命はかなり衝撃的であり、理解や解釈というものは鑑賞者の私たちに委ねられるものではないかと考えさせられました。
単純的なストーリーテーリングの中で、‘‘悪は存在しない’’ということを語る監督の真意とは何かということを俯瞰的に考察してみるのも面白いのではないかと感じました。
私自身が本作から特に印象的で考えさせられたことは、水源の問題における‘‘上から下への自然のサイクルと上下関係の社会構造’’とかなり類似しているものがあるのではないかと思いました。
水源問題は間違いなく、水の流れにおける上下のカメラワークによって象徴され、上から下へと流れたものは汚されたものだけが溜まっていくものであり、下にいる人たちは上にいる人たちのもとへとは上がることが出来ない残酷なまでの現実性が象徴されている。
冒頭から、花が森林を眺めているシーンと最後に巧が花をかかえて夜の森林を駆け抜けていくシーン、これはどちらも下から上を向いていて、カメラワークは共通している。
花が見上げる森林は朝の景色、そして巧が見上げる森林は夜の景色、光と影のコントラストによる映像描写、寓話的な幻想風景に脳内が染まっていく感覚にカタルシスを感じさせられました。
巧が高橋にした行動の意図はどういったことなのか、それは花と手負いの鹿が対面しているところを目撃したことによる巧の判断がそうしたものであると思いますし、私自身もあの最後の結末は最後まで理解することはかなり困難であると考えさせられました。
『悪は存在しない』というタイトルに込められた意味を物語を追いながら考えていると、この物語はより多重構造的に組み換えられるものがあり、詩的映像美の中で見る側の心を別世界へと誘う力が働いており、これまで見た作品の中でも私自身特別な作品であると感じさせられました。

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