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【感想】映画『聲の形』

夏休みの金曜ロードショーで『聲の形』を放送するということですぐさま録画した。
『聲の形』は2016年に上映された映画のようで、あれから8年も時間が経ったことに驚きであり、今こうして金曜ロードショーで見返してもアニメーションの絵やタッチはとても綺麗に描かれており新鮮な印象を受けました。

『聲の形』を最初に見たのは、上映されてから2年ぐらい経ってからだと記憶しています。
20代前半の自分が最初に見た時は原作も未読で、今も未読なのですが、後半を向かえた自分が改めて本作を見返した時に感じた感覚は全く変わっていてあらすじを理解しているつもりで見ると、場面ごとに自然と涙が溢れ出してしまいました。
聴覚の障害を抱える硝子が新しい学校に転校してきたところから物語が始まり、そこで将也という少年と出会い、彼は彼女が耳が聴こえないことを理由に
ひどいいじめをする。

硝子に対するいじめは、次第にエスカレートしていき、ある事件がきっかけで将也の周りにいる生徒たちの印象は悪いものへと変わり、硝子が再び転校することからいじめの対象は将也へと移ることになる。

いじめの主犯であることが理由で、周囲からは見放され、心を閉ざし一人孤独になった将也は家族以外の人たちの顔にばってんをつけて自分と他者との関係に分厚い壁を作り、彼の見える世界を通して孤独や人間不信を暗示させる描写は原作もそうなのかは未読なので分からないところもありましたが、見事なものだと感じさせられました。

だが、そうした状態からある日を境に将也と硝子は高校生となった状態で再会するところから物語が進展していきます。
彼が彼女に対して行ったいじめの代償は自分へと返ってきたことを自覚し、いじめを自らが受けることでその辛い痛みを理解する。
過去に行った罪を背負って受けてきたいじめを通して将也の価値観は変わっていき、硝子との関係は友人から好意へと変わり、硝子もまた同じである。
硝子との再会から、将也は硝子の妹である結弦や永束、植野と出会う。
彼が冒頭のシーンで飛び降りようと死を覚悟するまでに追い詰められていたところはとても胸が痛い気持ちでしたし、生きているとどうしても苦しくて家族や友人にも気持ちを伝えられず頭の中が真っ暗になりそうになるところも、私自身も何度か直面したことがあったので共感したところでもありました。

物語の終盤で、硝子も様々な感情、葛藤を抱えて死を覚悟して飛び降りようとするシーンがとても印象に残っています。

将也は、死のうとした硝子を必死で助け、彼が彼女を思う気持ちはこの瞬間、もしくはそれ以前から変わったことが窺えます。
すれ違っていたはずの心、思いがこの時、通じることが出来た。
『聲の形』における、‘‘聲’’という表現は言い換えれば、心というものが考えられます。
心の形、すなわち‘‘心象’’という表現を使うと、心象というものは本来見えないもの、聴こえないものであり、硝子の耳が聴こえないという聴覚の障害から越えた先にある思いの伝達が本作では描かれていると感じました。

思いの伝達というのは、将也と硝子だけの関係だけではなく、周りの仲間たちも同様であると感じました。
将也の心を閉ざした人間不信による問題は、仲間たちとの出会い、繋がりの中で解消され、ばってんとして顔につけられていた記号的なメタファーも心を許した人たちは、自然とばってんは剥がれていく。
さらには、将也の見えていた主観的な価値観は払拭され、縛られていた心は解放される。

私はこのシーンを見てからもう一度、涙が止まらなくなってしまいました。
『聲の形』は硝子や将也、また彼らの親、結弦などそれぞれの心の形、思いをアニメーションによって分かりやすく描いて見せたところに凄みを感じさせられた物語でありました。
涙を拭っても拭いきれないところがあり、金曜ロードショーを通してあの頃に見て気づけなかったことをようやく今になり、気づけるきっかけが出来て本当に良かったし、素晴らしい作品を作ってくれた京都アニメーションの方々、監督さんには感謝の気持ちでいっぱいでありました。

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