生きる時間を味わう
私が社会に出た頃と、現在とでは時間の流れが全く違うと感じる。
いや、社会に出た頃すでに、求められる時間感覚の速さに圧倒された。
ゆっくり丁寧に考え、正確で確かな仕事をし、時間をかけて結果を出したい。
精神科のリハビリの仕事をしていたので、ある程度人生の時間を積んできた対象者の生活の仕方や行動パターンに変化をもたらしたいが、そう簡単にはいかない。特に長期入院中の慢性期の対象者を担当していたので、1か月や2か月先にどれほどの変化が見込めるかと報告を求められても「そんなに簡単に変われるなら長期入院はされてないだろうに。」ともやもやとした気持ちでその場をなんとかやり過ごしていたことを覚えている。
しかし現代では、映画や動画は倍速で要所だけ視聴し、本は要約で内容を確かめ、AIは非常に詳細な文章やアートを瞬時に生み出す。
タイパ・コスパ・生産性を求めて無駄を省いて合理的にミニマルに生きている人がメディアを賑わし、社会を回しているような雰囲気に疲労感や居心地の悪さを感じる。
実はそんな人は多いのだろうと思う。
内向型人間とか、HSPとか、地方へ移住とか、アウトドアとか、どうにもこの無機質で流れのはやい社会に息苦しさを感じ、そぎ落とされた豊かな時間や体験、思考を取り戻そうとする動きが水面下で躍動していることも感じる。
リハビリの仕事に就いた時、私のミッションは「棺に片足を突っ込んでふと自分の人生を振り返った時に『思いがけない障害を負って、一時はどうなるかと思ったけど、意外にいい人生だった。』と満足そうに笑っていただく。」ということだった。もちろん、自分の人生もできるだけ豊かに、自分の正しいと思うことに正しく大胆に取り組んでいこうと意気揚々としていた。
現実はつらかった。毎日が砂を噛むような体験の連続で、いつの間にか「人生は戦いなのだ。」と確信するようになった。毎日お酒を飲んでは愚痴を吐き散らし、心はどんどん頑なになっていった。
しかし、毎日体験している自分のこの不適応感は、そのまま今対象としている方々の社会の中でのうまくいかなさと同じものだと理解するよう努め、自分の人生の中での実体験と臨床がかけ離れていかないよう気を付けていた。
人が社会を形成して生きるようになってから、脳の構造はほぼ変わらないというのに、社会は急激に変化していく。現代の社会の変化はとても急激で、10歳違うと体験している社会はもう別物と感じられる。
よく、古い遺跡に「今どきの若い者は…」と書かれていることが皮肉に語られるが、いやいや、今のジェネレーションギャップはそのころとは比べ物にはならんやろ、と思う。
思うだけで、前世の記憶はないからわからない。本当は今も昔も変わらないのかもしれない。え、どうなんでしょう。
社会の変化を加速させたことにインターネットとスマートホンの出現は大きく影響していると思う。とにかく情報が人の心を操作し、その情報をうまく的確に操作できる人が社会を動かしていく。大量の情報をうまく処理してタイムリーに動けないと負け組になるから、人の心は張りつめる。
社会で張りつめて過ごした心を、家で緩めて過ごせたら、明日への活力を得て再び頑張れるのかもしれないが、この日本においては、前の世代の体験した戦争とそこからの復興。核家族への変化。都市の過密化と地方の過疎化、そういう変化で社会のつながりがか細くなっていったことが強く影響し、家や地域の包容力は低下し、子供の体力も思考力もストレス耐性もか細くなっている。
新社会人の思考方法、現実への対処方法に合わせて社会も変化しているが、どうにも子供のころの遊びや他人とのふれあいで培われるはずの身体感覚が乏しく、豊かさや彩かさや、ゆとりや深み、長い時間の流れのなかで受け継がれた体験などが切り離されているように感じられる。
短歌や俳句の短い文章の背後に見える景色や思考の際限ない広がりはきっと見えていない。
それどころか見えているもの、体験している自分の気持ちをうまく表現する言葉も育っていない。言葉が育っていないから内面の体験を自覚できてすらいないかもしれない。
これでは生きているだけで必死で面白くもなんともなかろう。
私個人はここ数年児童精神科や児童福祉施設などに勤務して、どちらかというとこの社会に適応できなくて困っている子供たちに接することが多かったのでこの感覚は偏っているかもしれない。
が、社会にゆとりがなく、スマホの中ではキラキラと美しい陽キャのキャラクターがもてはやされ、今「美しい」と言われる基準とは少し離れた容貌を持つ人は自虐し、いじり倒される。それがコンプレックスで、生きているだけでもかわいくて眩しい若者が「整形したい。」ときれいな人と同じ顔になることを求める。
言葉の強い人は圧力で他者を制し、他者の意見を取り入れないため集団の価値観は偏っていく。
幼少期に特別な力を実感できなかった平均的な人々には「その他大勢」みたいな役割が与えられ、地に足の着いた地道な活動で生きる力を積み上げている姿は目に見えないから、そんな力強い大人の魅力に若者は気づかない。
そんな社会の変化は確かに起きていると感じる。
生きる体験に乏しく、頭でっかちな若者世代と過ごすことが増えたころ、病院の夏祭りで盆踊りをみんなで踊ることになり、地域の婦人会のお母さん方(だいぶ高齢の方が多かった)が踊りを教えに来てくださったことがある。
なんというか、その集団の明るさと力強さに本来の命の輝きを見るような気がした。
踊るだけではない、休憩時間に持ち寄った自家製の食べ物を分け合い、冗談を言ってはお互いの肩を叩きながら日焼けした顔でガハハと笑い、意見の相違があるときは「あんたそりゃ違うよ。」と忖度なしで明るく議論して笑う。
スタッフも患者さんも圧倒されてしまうほど眩しく、力強かった。
積極的に地域活動をされていることからも、その世代の中でもキラキラした陽キャに偏った集団なのかもしれないが、それにしても生きて体験してきた身体的な感覚を積み上げてきた、独特の力強さが感じられたのである。
病気になり、回復して、社会復帰を目指そうにも、社会にゆとりがなさ過ぎて、そのハードルは上がりすぎている。病院内のリハビリ業務においては無力感を感じるようになった。
病んでしまった人も再び戻りやすい社会にしたい。社会生活に疲れた人が病んでしまう前に力を取り戻す時間を持てるシステムを増やしていかないといけない。社会のはやい流れにあおられて、すぐにゆとりを見失ってしまいそうな現代人の生活に、少しブレーキをかけ、身体を使ってじっくりと物事を体験し、思考し、他者とのつながりを確認することで、ゆとりを取り戻す時間を持ってもらいたい。
考えているうちに私にできることがまとまってきた。単純だった。今まで病院の中でやっていたことを街の中でやったらいい。
包容力のない社会の中で子供時代を生き延びて、社会人として生活をはじめ、疲労困憊しているけど、何に疲れているのかもよくわからない。そんな大人世代のみなさんが、病院へ担ぎ込まれる前に息継ぎをできる場所。街の中に作業療法室を作りたいのである。
大人がゆとりを取り戻し、生きることを楽しみ始めたら、子供は大人になることへ希望を持つことができるようになる。大人になることに希望がもてたら、今目の前にある課題に取り組むモチベーションも上がる。モチベーションが上がって物事に積極的に取り組み始めたら現実的には傷つくことも増えるだろう。その時、ゆとりのある大人のいる家庭や地域が包容力を発揮し、子供の明日を生きる力を回復させてあげることができる。
大人も子供も、人とのつながりに癒されることを体験できる社会になったら、各種依存症も減ると思う。現実社会が輝きを取り戻すと、ネットの中の社会も地に足の着いた落ち着きを取り戻すのではないか。
身体を使って現実社会を生きる体験と、ネットの中の情報の流れ、そのバランスを調整して現代ならではの豊かさをみんなで味わえるような社会を目指したい。
そんな仮説が私の頭の中で暴走します。
現状では頭でっかちになってしまっている私自身のバランスをとるためにも、開業への手順を現実的に進めていきたい今日この頃。
この文章作成はその第一歩だったりしています。
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