勝手に芥川賞を予想する文系遊び
今日は文学サークルの人間らしい話題です。珍しく。
6月13日に、第171回の芥川賞候補が発表されましたね。
芥川賞の受賞作品は読んでいますが、候補の段階では読んだことがありませんでした。文系山男を自称する手前、候補作の段階から読むのもいいな、とは思っていましたが家の本棚に眠る積読がそれを許してくれないというか何と言いますか。
今回の候補作が発表された時も悩みました。どうしようかな、読もうかな。発表までに読み終えるだろうか。「積読の歴史がまた一ページ」となって終わるだけじゃないのか? でも読んでおけば受賞作が発表された時に「やっぱりなぁ~俺も〇〇が獲ると思ってたんだよな~」と得意気に語れるしなぁ。まあそんな語りをしたところで人にウザがられるだけだけど……。
などと悩んでいた6月13日、サークルメンバーの川和真之から連絡がありました。
「芥川賞予想一緒にしませんか?」
「やりたい!!」
こうして芥川賞を予想する文系遊びが始まりました。
第171回 芥川賞候補は以下の5作品です。
【1】
著者 :朝比奈秋(あさひな あき)
題名 :サンショウウオの四十九日
掲載誌:新潮 五月号
【2】
著者 :尾崎世界観(おざき せかいかん)
題名 :転の声
掲載誌:文學界 六月号
【3】
著者 :坂崎かおる(さかさき かおる)
題名 :海岸通り
掲載誌:文學界 二月号
【4】
著者 :向坂くじら(さきさか くじら)
題名 :いなくなくならなくならないで
掲載誌:文藝 夏季号
【5】
著者 :松永K三蔵(まつなが けー さんぞう)
題名 :バリ山行
掲載誌:群像 三月号
※日本文学振興会のHPで確認
候補に挙がるだけあって、やっぱりどれもすごいんだよなぁ。まずそれぞれを読んだ感想を、稚拙ですが書きます。
『サンショウウオの四十九日』は結合双生児の内面に対するリアリティに圧倒される。ほとんど一人の人間に見えないほどに結合した双子の思考を、想像でここまで書けるのか? もちろん取材や調査を徹底した上での想像なのだろうけど。一人の体に人格がふたつというのはフィクションではよくある設定ですが(作中で主人公の悪口として出てくるあしゅら男爵もそうだし)作り物っぽさを感じさせない本物のリアリティがあります。自分以外の誰かと身体を共有していて、生まれてからずっと誰かと身体と意思が地続きになっているってどういう感覚なんだろう。他人の中で生きる、自分の中で死ぬ。自分の身体の先に誰かがいる。そもそも誰だって他人の中で育って生まれてきたはずなのにその感覚を誰もが失っていて、それを書こうとしているのかな、もしかして、男なので一生経験することはないけど妊娠するとこういう気分になるのか? とか読みながら考えた。ふたつのものが混ざり合ってひとつを形成しているけど、完全に混ざり合うわけじゃなくてひとつの中で独立している。哲学的な話なんだけど、小難しさよりも読み応えの方を強く感じる。これは時代を選ばない、普遍的なテーマで書かれた一作だと思う。
『転の声』は時代性を一番感じた。現実とは違い、ライブチケットの転売が合法のままの世界なのでSFともいえるかも知れない。最初は「なんで今さら転売問題なんだろう、もう違法ということで決着のついた話なのに」と疑問に思いながら読み進めたけど、これは他人の気分でころころ変わる「価値」の本質について書いているのか。自分という人間の本来の価値が「定価」で、普通は誰も見栄を取り除いて良い部分も悪い部分も含めた「定価」があるはずなのに、誰もが定価のまま自分をさらすことを嫌がって不安を感じている。主人公も口先では転売を批判しながらも転売で自分の価値が上がるのを望んでいる。これもたぶん、口先では「ありのままの自分を見せる」みたいなかっこいいことを言う人でも自分の「定価」に不安を感じているという、自省のような作品なのではないだろうか。ファンはファンで、主人公が駄目なところを見せてもキャーキャー言って喜ぶし、他人の気分で価値が上がったり下がったりするし、誰も本当の「定価」に価値を見出そうとしない。最終的には「無観客ライブ(※現実の配信と違い無観客で演奏もせずチケットだけ売る)」に多額のプレミアがつくという、無意味な虚像に誰もが群がって高値をつけたり価値が下がったりする、本当の価値を受け入れられない時代への皮肉のようにも感じられた。時代を切り取って書いている、今の時代に読むべき作品だと感じた。
『海岸通り』は、これが一番芥川賞のイメージに近い作品だなと思った。ウガンダ出身のマリアさん。黒人と移民に対する差別と偏見、と書くとありきたりだけど、この作品がすごいのは読んでいると自分の無自覚の差別意識と偏見を感じさせられるところ。例えば、主人公は仕事熱心で能力もある。だけど職場のコーヒーをくすねて勝手に飲むし、金に対してがめつさもある。だから職場の備品が盗まれてネットで出品されていたと詰められた時に、「ああ裏でこういうことしてる主人公なのね」と読みながら思ってしまった。主人公も否定しないし。「こういう行動をする人間は、ああいう行動もするはず」と無意識の偏見を焙られたような気分になる。マリアさんは日本に来て頑張っているから悪い人のはずがない、と感じてしまうのも偏見だし、マリアさんの夫のDJにさえ偏見を持ってしまう。キャップでサングラスで金属じゃらじゃらのラッパーでDJ。ラッパーなのでもちろん不倫している(これは最もひどいタイプの偏見)けど、マリアさんの代わりに職場を訪れて真面目に謝罪する誠実さも書かれている。差別と偏見がどういうことなのか、イメージではなくて実感を持って見せつけてくる。読み手の無自覚の感情にスポットを当ててくる感じが、自分の中の芥川賞のイメージにぴったり合いました(これも偏見かな)
『いなくなくならなくならないで』は何回書いても題名覚えられない。それはともかく、作中で書かれる感情は多くの人が共感できるのではないだろううか? いなくなってしまった友達、死んでしまったと思っていた友達が実は生きていて、自分を頼ってくれて、再会できたのが嬉しくて、もういなくならないでと思うけど、だんだんと軋轢が生まれて、もういなくなって欲しい、でもいなくならないで欲しい、いなくなくならなくならないで欲しい、と感情が複雑に絡んでいく。友達だけどウザい、関わりたくないと思う。ウザい、関わりたくないけど友達だから会いたいと思う……みたいな経験は多くの人がしているのではないかと思う。作中で主人公がずっと見ているのが「今、現実に生きていた目の前の友達」ではなくて「過去、死んだと思っていた思い出の中の友達」というのも、主人公の歪んだ感情が表れていると思った。主人公の、というかこの作品に出てくる全員どこかしら感情が歪んでいる。友達は居場所をつくる(うばう?)ために自分というものを見失っているように思えるし、主人公の両親も、友達を前にいなくなった姉の影を見ているようで、誰もが目の前の人間を見ないで歪んだ人間関係を築いている。「複雑な感情」と五文字で雑に片づけるのは簡単だけど、感情が絡まって誰も身動きが取れなくなる感じ、これは本当に読んだ方がいい。
『バリ山行』は、「バリ島に山のイメージないけどなぁ」なんて考えていたバカ(私)の横面を張り倒すような面白さだった。バリ山行のバリは、バリエーションルートのバリです。地元の会社に通いながら、会社のレクリエーションの一環で六甲山に登った主人公。六甲山のバリエーションルートを毎回歩いている妻鹿さん。二人がメインのお話で、これはすごく希望のある物語だと思う。会社の方針転換で業績がやばい、リストラが始まるかも知れない、まだ転職して数年だし小さい子供もいるし社宅にも住めなくなったらどうしよう……という現実的な、暮らしの危機がまず書かれている。でもそういった生活の危機は実際的な生命の危機に比べれば必ず乗り越えられるはずで、バリエーションルートをやることで主人公も、乗り越えられる危機なのだと感覚で理解する。だからといって生活の危機という問題を矮小化するのではなくて現実として捉えなければならない問題としてしっかり書いている。会社の描写が絶妙な現実感があって、上の方針転換などで自分と関係のないところで業績が悪化する、コントロールできないところで勝手に回復している、と振り回される感じがリアルで、胃が痛くなる。うちの会社みたいだな……。不安と希望の両輪を書くことでバランスをとろうとしている感覚。不安の側に傾いていた主人公は、バリ山行で生命の危機を感じることで希望の側に傾いてバランスが取れるようになっているように感じる。主人公には生活の危機を乗り越える力があるし、主人公にバリエーションルートの魅力を教えた妻鹿さんにもその力があったことが最後の一文によって暗示させる。希望に満ちた、暗い話題ばかりの現代に読みたい素晴らしい一作でした。
で、ぜんぶ読み終えて改めて思ったのは、純文学の評価点なんかぜんぜんわからんというところでした。
曲がりなりにも何十年も小説を読んでいますから基準が「面白い小説」と言われたら自分なりの考えで「一番面白かったのはこれだ!」と主張を言えます。でも純文学の評価基準は面白さではないだろうし、そもそも純文学に一家言あるわけでもないし。
ですが別に文学語るのに資格がいるわけじゃあるまいし、自分の言葉で語れないならこうして感想を書いた意味もなくなるので、この中から芥川賞受賞作を推測します。
第171回の芥川賞を獲るのは「バリ山行」です!
何故なら山が出てくるからです!
冗談はさておき、採点基準はわからないので自分が一番好きな作品を推しました。「バリ山行」は、山が出てきてうれしいというのもモチロンあるのですが、最後に希望が語られているのがすごく好きでした。純文学や私小説って苦悩や悪徳は認めるクセに喜びや美徳には無関心なのか、過去の芥川賞の中で読んで最後に希望を感じられる作品ってあんまりなかったような気がします。(火花は希望を感じたので、好きでした)
普段、人間が他人に開示しない心の内側にあるものは醜い感情や絶望ばかりではなくて、美徳や希望もまた見せないように隠し通す感情のひとつだと思います。「バリ山行」は人が隠す暗い感情ではなくて、人が隠す明るい感情、つまり希望にスポットを当てたので、すごく好きです。なので、受賞です!(断定)
発表は7月半ばくらい? 当たるでしょうか予想は。もし「バリ山行」が芥川賞を受賞したら「やっぱりなぁ~俺もバリ山行が獲ると思ってたんだよな~」と自慢気に語ろうかと思います。その時はウザがらないでください。よろしくお願いします。
※NOTE大賞2024に参加してます。バリではないですが山がテーマです。よければお読みください。
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また新しい山に登ります。