【人生ノート311】慢心と野心とは、つねに省みて、こっから先も持たぬようにせねばならぬ。
慢心と野心
真に健全なる心身でなくては、真の神人合一の境にはなり難い。
ちょっとの混りものがあっても、それが非常にこたえて心身を悩めるものである。
各人はよく常に省みて、自己がまだ不健全である時には、いよいよ万事にひかえ目に、自分はまで人間として不完全なものであるということを悟って、陰徳をつむべきである。
しかし今の世では、心身ともに真に完全無欠だという人は甚だまれである。特に善きみたまの人ほど、一時、外見が見ぐるしい場合が往々ある。
各人が副守護人の支配を脱して、本正守護神の真の活躍に移らなくてはミロクの世は永久に来ない。いまは悪虐無残、汚穢臭濁の末世であるから、神界においても成るべくは大目に見ておられるのである。心身の不健全なる間は、寸時も直霊を放れぬよう自己を卑下し、かりにも慢心野望のあることのないよう意をもちいねばならぬ。内省の強い人へは、いかなる邪神も手の出しようはない。
心に隙があり、慢心野心が少しでもきざすから、得たりかしこしと邪霊に乗ぜらるるのだ。
邪霊の捕虜となりおわった者の身魂は、実に気の毒なことである。
慢心と野心とは、つねに省みて、こっから先も持たぬようにせねばならぬ。これが一番大切なことである。
『信仰覚書』第二巻 出口日出麿著