沁みあう生活
楽しい時も、苦しいときも、それは事柄ではなくして気分です。自分のやってをることが非常に苦しく、難局であっても、自分を助けてくれる人、自分を知って居る人が、周囲に少し居っても生き甲斐があり、幸福感がある。世の逆境から立って立身出世した人の背後には、必ず神仏、両親、師匠等よりの絶えざる愛と信との流入があった。愛信の授受、そこに眞正の和がある。和から来た仕事でなければ本当のものではない、永遠性がない。和は神の心で、宇宙自然の姿であります。
其の和には順序と云うものと、それから犠牲というものと、先ず此二つのものが肝腎であります。行動の上においては順序であるが精神的に言へば信である。形では犠牲という事になりますが、之を精神的に言へば愛である。いくら「和合して行け、親しめ」と説いても、相互に信が無く愛がなかったら精神的の和合は出来ん、信のない世界は砂漠であり、剣の山であり、愛のない世界は氷山であり、底なしの穴である。
信と愛とが徹底し難いのは、要するに我儘であって、知恩および報恩が信仰生活の基本であるということを十分に知らぬからであると思います。
何時も申します様に、生活それ自体が自分で生きて居るのでなしに、空気も水もお日さんも土も皆神様から頂いて居る。又日本に生まれたと云うことだけでも非常に有難いのである。ところが、恩を知ると云う事は、矢張り一つは窮乏した人でなければ感ぜられない。良い家庭に育ち、楽な境涯に初めからいた人は、どうも知恩と云うことが解らん。
何か非常に苦しい境涯、たまらん所に一遍行って来た人は比較が出来る。道を余計に歩いた人、いろいろな事を知った人、目に会うた人は比較ができるからして、「まだ良い」とか「有難い」とか云う気になれる。目に会わん人は、一本筋だから、その事だけしか自分の身に沁み込んで居ない。目に会うという事が大事なことである。どっちにしても、悟りを開けば結構であると私は思って居るります。
知恩と云う事でも、知識的に知るのではなしに、沁み込むという事がなければ解りません、又奉仕とか愛とか云う事も徹底しないのであります。
で、お互いの生活は、或る意味において言えば、お互いに沁み合う生活であり、愛とか信とかの交流である。沁み込むという事は、外を歩いている場合でも、ものを見る場合でも、何をする時でも沁み込まなければ自分のものにはならん。又人に沁み込まさなければ本当に其人と繋げない。つまり、手練や手管でなしに、魂をブチ掛けてゆかなければならない。之は中々難しい事です。お互いが同じ部屋に居れば沁み合うて居る、甲と乙の霊気がお互いに交流している。知らず知らずに…………。
それが大勢の団体であれば、そこに大きな一種の雰囲気が出来て来る。その中に這入ると、だんだんその霊気が沁み込んでくる。
『信仰叢話』 出口日出麿著
これまでのお示し
謙虚な反省
https://note.com/azumanohikari/n/n138c80328e26
何気ない話
https://note.com/azumanohikari/n/n1bda501fcd50
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