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遠距離介護は突然に。ファイナルシーズン。父の看取り作戦大成功
広島県で一人暮らしだった父が入院した。末期癌でおそらく家には帰れない。私達三人兄弟は皆遠方に住んでいて、遠距離介護が始まった時から、父の最期の瞬間に誰も側にいられないかもしれない事は覚悟はしていた。
だが、結果として、亡くなる前の日に子供三人揃って父の病室で時間を過ごし、次の日の昼に病院から呼ばれて駆けつけた弟1と私とで、夕方六時に父が息を引き取る瞬間まで側でつきそう事が出来た。弟2は、その瞬間には残念ながら間に合わなかったけど、父の最期は奇跡的なタイミングで上出来だったと思う。
私は一月半ばに帰省して4日間連続面会をし、二月にまた来るねと病院を後にした。毎回、来月もまた父に会えますようにと思いながらも、今回が最後になることも覚悟はしていた。LINEのビデオ通話も覚束なくなり始め、普通の声だけの電話ならまだいけると粘ってはいたが、何回コールしてみても応答がないことが多くなった。看護師さんが気づいて、電話に出て父の耳元にあててくれたりした事もあった。でも、もう電話にでるのも話すのもしんどくなってきている事がわかり、気が気ではなかった。
弟や叔父叔母と連絡を取り合って、誰かしらが面会に行き、様子を伝えあった。その連絡でだいぶ弱ってきたことは感じていた。
以下、長くなります。
2月8日土曜日
8、9日土日をカバーする弟②から、土曜日の様子を聞いて、まだ直接会えば話も出来ているみたいでよかったと少し安心していた。
2月9日日曜日
私は明日月曜日からいくけど、まだ大丈夫そう。そう思って油断して、お昼ご飯食べたりして昼前病院からの電話に気づかなかった。
ふと気づくと、病院からの着信が2時間前に!
慌てて電話すると、父の同室の人がコロナ発症、父も陽性で個室に移ったと連絡。準備はほぼ出来ていたので、すぐ夫が駅まで送ってくれ出発。埼玉のうちから、なる早の新幹線に乗り、病院に着いたのは午後8時。面会時間はとうに過ぎていたが、夜勤の看護師さんが裏口から入れてくれた。父は熱もあったようで、私が誰だか分かってないようだった。呂律も回っていなくハッキリと聞き取れないけど病院に帰らないといけないと言う。今までカーテンで仕切られた四人部屋にいたのに、個室に移って景色が変わって自分がどこにいるかわからなくなったようだ。その姿を見てショックだったけど、もう夜も遅いので、いったん実家に引き上げた。夜10時には渡船が終わるので、家にたどり着けなくなるのだ。🚢
兄弟LINEで様子を伝て、とりあえずは私がこっちにしばらくいるから大丈夫と連絡した。
暗い家に戻って、お風呂も入らず寝ようとしていると、やはり何かを感じた弟①が現れた。二人で居間に布団敷いて寝た。
2月10日月曜
翌月曜日。ゴミを出す。午前は近所のスーパーで買い出しをした。病院と行き来して、いつどうなるかわからないので、まずは食料確保。灯油も残り少ない。
午後は一緒に病院へ行った。もう会話は出来ないが、足や手を摩ったり側に座っているくらいしか出来ることはない。しかも、コロナ陽性なの厳重なマスクを被り消毒も必須。看護師さんはコロナ感染るといけないので短めでと言われはしたが、長くいたのにそっとしておいてくれた。帰りに、父の普通預金口座からお金を下ろす。弟①は外せないしごとがあり、ここで一旦大阪へ。代わりに、弟②がまた現れた。久しぶりに三人揃った。寒いし、余裕もなくてまたお風呂なし。そろそろフロ入れよ、私。ガスストーブが居間にしかないので、布団を敷いて雑魚寝スタイル。
だんだん合宿みたいになってきた。大量におでんでも作っとけば便利かもと、午前中に買い物してをしておでんを仕込み、ガスストーブ上に放置してあったので、おでんを突いて食べた。
2月11日火曜日 祝日
弟①は外せない仕事があり、朝5時起きで新幹線で大阪に戻った。弟②はタイムズで車をかりていたので、灯油を買いに行ってもらったり、みかん直売所でみかん買ってきてもらったりと雑用を頼む。50歳を過ぎたも、姉に雑用を次々言いつけられる末っ子の弟🤭。文句も言わずにやってくれる。その後、その車で午後2時の面会に合わせて二人で病院に行くと、弟①が大阪からとんぼ帰りで広島にカムバック。彼らの行ったり来たりが激しいが、今週が山場だと私達は分かっていたので、みんな頑張る。病院入り口で待ち合わせて合流し、三人兄弟揃って面会!
弟二人は身長が185センチの大男なので、三人揃って面会したら狭い病室がギュウギュウになる筈だったが、コロナ陽性で個室に移っていたことが幸いした。
「お父さん、今日は休日だから三人で来たよ!」父は、会話は出来ないが、私達三人を代わる代わる見ていた。ちゃんと認識していたと思う。コロナを警戒しつつも、結構長い時間四人で過ごした。弟②はその日のうちに、また仕事で九州に戻った。
2月12日水曜日
葬儀場は近所の会館と決めていたので、弟①と二人で前もって話し聞いちゃおうかと、事前相談の電話をしてみた。すると、葬儀が立て込んでいて明後日なら時間が取れますとの返事。驚きながらも、明後日14日午前に相談の予約。今週が山場だと思いつつ、お父さん、なかなか頑張っとるね〜と言いっているうちに病院から電話があり、朝から反応が無くなってきています。何時に来られますか?
渡船と電車で行くつもりだったが、すぐにタクシーを呼んで病院へ急いだ。
2時過ぎに二人で病室に入ると、父は規則的に息をしつつも、全く呼びかけには反応せず、目が半分開いているものの何も見えていないようだった。
九州に戻った弟にまた連絡。すぐに出るけど、夜8時頃到着予定との事。
私と弟は、父がもう十分頑張ってくれた事がわかっていたので、これ以上頑張らなくてもそっと側にいればいいとは思っていた。が、弟②が8時に来るならと、「お父さん、悪いけど、もうちょっとだけ頑張って!」とあちこちさすり始めた。痩せた足を布団の上からさすっている私に、「お姉ちゃん、それ足じゃなくない?」ふと見ると足ではなく、体位を調整する為のガードだった。「あ、ほんまじゃ。」もう、その辺りから、悲しいのと可笑しいのとがなんだかよくわからないテンションになって病室で弟と喋ったり笑ったりしていた。父も聞こえていたかもしれない。そして、この状態がしばらく続いて夜中や明け方になるかもしれないなら、交代でご飯食べに行っといた方がいいかも、まだ大丈夫そうだから二人でサッと食べて来ようか等話しているうち、看護師さんがきて脈やら酸素飽和度やらをチェック。ここから長い方もいますが、脈がだいぶ落ちていますとの事。ちょっと出かけようとしていた私と弟は、ご飯はパスして病室にいる事に。よく見ると、息を吸う量がさっきより少なくなってきている。ドラマで見るようなモニターはないんだね〜とか話していると、モニターはナースステーションにあったらしく、ピーっと音が聞こえたかとおもうと、看護師さんと先生が入室して脈を図り、時計を見て、「午後六時ちょうど、亡くなられました。」弟と同時に「え?まだ息吸ってる見たいですけど。」と言ったけど、その一呼吸を最期に父はホントに動かなくなった。
「研ちゃん、間に合わんかったね。」「まあ、昨日三人で会えたから。今日はもう分かってなかったよ。」「うん、そうだね。」「お父さん、よー頑張ったね。」
看護師さんがテキパキと父を着替えさせてくれ、これから相談に行く筈だった葬儀場に電話を入れて、父を迎えに来てもらうようお願いした。
病院に向かっている筈の弟②に、亡くなったので自宅に向かう事を連絡。叔父や叔母にも連絡を入れた。
遺体搬送の車は運転手さんが一人で、父の遺体を家に運び入れるには運転手さんの他に男手が必要だった。弟が一緒にいて本当に良かった。
父を仏壇の前に寝かせて、色々整えてから、葬儀会社の方は引き上げた。細かいことはまた明日打ち合わせの電話をくれるとの事。
「やれやれ、お父さん、ようやく家に帰れたね。」
そうこうするうちに、弟②も到着。父も家に帰ってきたし、兄弟三人揃ったし、ホッとした。ホッとして、三人で残りのおでんを食べた。作っといてホントに良かった。あっという間になくなりました。
そして、「まあ、私達頑張ったよね。上出来じゃん。」「うん、夜中になるかもと思ったけど、お父さん、夕方六時とはちょうどいい感じで逝ったね。」「ね、お父さん!」などと言いあった。悲しいというよりも、父がようやく楽になったという安堵の気持ちが大きかった。
線香を絶やさないようにと言われたが、ぐるぐる巻きの5時間もつ線香だったので、あんまり気にせず、また合宿状態で寝ました。
父の看取り作戦、大成功と言ってもいいんじゃないでしょうか。✌️