#4 全てを失った、2月1日という日
来たる決戦の日、私は御三家の受験を迎えた。
御三家を受ける娘に対する母親の気合いの入り方は凄まじいもので、自宅から校舎まで大目に見ても1時間とかからないのに、前泊の宿までもが手配された。
前夜はクイズ番組を見ながら嵐のファイトソングを聞いたり、受験勉強が始まって以来、珍しく穏やかな晩を過ごし、当朝は、峯岸みなみが白濱亜嵐との熱愛の断罪として丸坊主になっている姿を眺めながら、どん兵衛のうどんをつるりと啜った。
肝心な当日の記憶は、殆ど残っていない。精密に言えば、あまりのショックで海馬から消されている。
お試し受験の時同様、緊張で緩々のお腹を案じながら、あっという間に試験が開始した。
ここまでの2科目で不合格が確定し、理社の記憶は綺麗さっぱりない。もはや受験したかすら疑わしいほど、きれいに抜け落ちている。その後の昼休みには面談を控える受験生の緊張を紛らわすべく、在校生のクイズやフリートークが行われたのだが、どういうわけか私はその教室で1番積極的に会話に混ざっていた。どう面接で足掻いたところで、天変地異が起こったとしても、もう入れない事は分かっていたのに。
グループ面接に向かう足取りは、処刑を待つ人のごとく重かった。もはや落ちたことはどうでもよかった。ただ、母になんて報告して良いのかをずっと考えていた。
試験が終わり母の元へ向かうと、何よりも先に「どうだった?」と手応えを聞かれた。当時の私は「できなかった」という言葉を母を前にして使うことが出来なかった(言おうものならボコボコにされる為)模試やテストなど、手応えを聞かれるたびに「よくできた」以外は「普通」と濁しており、この日も例外ではなかった。
本当はね、白紙で殆ど出したんだ。緊張して、何も出来なかった。怖くて、気が付いたら泣いてたんだ。そんなこと、口が裂けても言えなかった。
母は察していた。おそらく、僅か小学6年生の負のオーラは流石に隠しきれなかったのだろう。ドス重い「そう。」という声は今でも思い出せる。
翌日は第三志望の受験日だった。もはや初日の記録的ドン滑りを経験していた為、放心状態だった。後日聞いた話では、僅か20人の合格枠にも関わらず、数百人がいたらしい。私は完全に初日の出来事に打ちひしがれており、自席に着くまでとてつもなく時間がかかったことしか記憶にない。しかし、初日にこの上ない大失敗をしたせいか、中学受験自体がもはやどうでもよくなったせいか、すこぶる冷静に試験を迎えた。4科目全て満点だったのではないかとも思えるほど順当に全て回答し、試験時間も20分ほど余らせていた。自信満々に時計を見ると、自分以外の全員が既に解き終えており、急に自信を失ったが、しっかりと見直しも行い、初めて自信を持って受験を終えることが出来た。
しかし、数時間後に前日の不合格が正式に母に通達され、親子共々大泣きした。(積み上げてきた時間があんな形で散ったことがショックで仕方がなった)
部屋にじっと閉じこもりたい気持ちでいっぱいだったが、翌日に控える第二志望の対策のために、泣いて引きずられながら塾に連れて行かれた。通された部屋はいつものクラスではなく、2番目のクラスの対策部屋。最初は何も考えなかったが、数分後、いつものクラスは第一志望の受験が予定通り上手くいった組しかいなかったことを知った。(聞こえてくる会話や明るい声から、知らざるをえなかった)
この世の絶望をかき集めたような気持ちで第二志望の過去問を解いた。全て大幅に合格点を超えていたが、もはやそんなの何の自信にもならなかった。今にも消えてしまいたかったが、私を1人の生徒として、温かく接してくれる先生2人と話せたことで、少しだけ楽になれた。
帰る前に、その教室にいたもう1人の女の子に話しかけた。その子も第一志望がうまく行かず、夜遅くまで残っているのだと思ったのだ。ところが、その子は第一志望には既に合格しており、チャレンジ校を受験することが決まった為に残っていたのだ。一番上のクラスにいた自分は、対策部屋も別室で、さらには一番下のクラスだった子が第一志望に合格している。そんな残酷な事実が、余計に私の心をどん底に追いやった。
その晩、午前中に終えた第三志望の結果が発表された。
あまりの合格人数の少なさに、自分の番号を探すのが怖くなったが、無事に合格していた。これで私立中学への進学が確定し、当時の自分にとって唯一の希望が見えた。(公立に行きたくなかったのではなく、母の許しが最低限出るラインは守りきれた為)
翌日の第二志望も、初日を超えることはまずないという安心感で、妙にリラックスして受験ができた。4科目とも、かなり独特な出題傾向で知られていたが、妙に自分に合っていたこともあり、スムーズに試験を終えた。算数のみ、手も足も出ない大問が1つあったのだが、基礎問題を確実に取りに行けば、十分他の科目でカバーできるだろう、という戦略でしっかりと見直しを行えた。これも今思えば初日の事故が生んだ副産物だと思う。得意の国語も、この学校においては最大の鬼門で、とんでもない記述量であったが、しっかりと最後まで自信を持って回答することが出来た。のちに私が6年間を過ごすことになるのがこの第二志望なのだが、面接前も隣の人が話しかけてくれたり、凄く温かな気持ちで1日を終えることが出来た。これがフィーリング、というものなのかもしれない。
その数時間後、第二志望の合格も決定した。そして、それと同時に翌日は第一志望のリベンジマッチが決定した。
この1日を乗り切れば、この受験生活がやっと終わるんだ。
第二、三志望の合格が決まっていたこともあり、たった2日前に同じ学校を受けていた自分とは思えないほどにリラックスして試験を終えた。数十倍の倍率だったし、運が良ければ、くらいの気持ちだったが、自信を持って試験を終えることが出来た。はじめて、心の底からの「凄く出来た!」を母に伝えた日でもあった。
翌日、第一志望は不合格となったことがわかった。自信はあったが、妙な達成感と納得感も感じられた。形はいびつだだったが、なんとか最後は形になった4日間だった。が、そう思っていたのは私だけで、母は完全に憤っていた。張本人がケロッとして、むしろ第二志望で迎える新生活にワクワクしていたのが、余計に怒りを煽ったのだろう。それはそれは寝る間際までグチグチネチネチと詰められ、もはや相手をする元気もなかった私は「そんなグチグチ言っても、結果は変わらないんだよ」とぶった切って寝た。
塾でのお疲れ様会も終わって、完全に受験勉強から解放され、私は受験密着番組を好んで見ていた。自分に成せなかったことを成し遂げた同年代の子たちが、カッコよくて仕方なく、純粋なリスペクトの塊だった。が、母はそういった番組を見るたびに、嫌味とため息を連発し、それはそれは嫌な姑のようだった。
風呂に一緒に入った日は、「そんな底辺校の入学式なんか行ってたまるか」「1人で行け」などと怒涛の罵詈雑言を浴びせられ、やっと6年間の地獄の日々から解放されたのに、ストレスは癒えず消えずだった。一生懸命掴み取った合格。自分の気持ちは、可愛い制服を着て過ごす新生活へのワクワクでいっぱいだったのに、毎日土足で踏みにじられるような気分だったし、そもそも御三家を受験している人間の第二志望。とても底辺校と言えるようなレベル帯ではないのに、なぜか毎日侮辱され続けた。公立に行くことが最悪の選択で、それ以外は母が満足する形に綺麗に収まる、まして第二志望なら万々歳、のはずだったのに、御三家以外は母の望みには敵わず、母にとっては何の価値もなかったことを知った。
この日を境に、自分の母に対する絶対政治に疑問と苛立ちを強く覚えた。
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