misato_hoshino
突然ですが、今日は私のパートナーについて書いてみようと思います。 年齢は年上、とても心優しく、どんな時でも私を笑顔にさせてくれる人。そんな彼には、発達障害とパニック障害があります。 後者は実生活でそこまで困ることは多くなく、時々満員電車に乗れなかったり(補足:体調を崩してしまうため、急行でなく各駅に切り替えるなど)某テーマパークに行けなかったり、物凄く大きく括ると、「時と場合によって、人混みがかなり苦手」という部類です。 私自身も適応障害を患ってから、人混みへの恐怖心が
適応障害を発症して早くも半年。 筆が乗らず、長く完成までかかってしまいましたが、「今まさに適応障害かもしれない」「どういうわけか身体が言うことを聞かない」といった悩みを抱える方の一助になれたらと思い、記しておきます。 ⚠️適応障害だと診断された日までの話は、「会社に行けなくなった、あの日のこと。」に詳しく書いてあるので、そちらを参照ください。 適応障害と診断された日に即休職が決まり、上司に遂に休職を伝えました。が、案の定理解は得られず、上司に対する不信感と、言われ放題散
かなり久しい更新になってしまいました。 手が空いた時にふと、記事を書き進める事はあったのですが、大掛かりなものを書き始めてしまった為、何も書き上がらず、更新が止まってしまいました。筆が乗る時は怒涛のように書けるのですが、そこを逃すと中々上手く筆が進まないものです。 そんな私ですが、傷病手当金の受給がようやく始まり、大赤字だった貯金もやっと補填できる…と思っていたのも束の間、通知書を見ると大学生のバイト代よりも少ない額。傷病手当金、そもそも4ヶ月も支給まで掛かったのに???
皆さんはお弁当にどんな思い出がありますか? お弁当に入っていたこのおかずが大好きだった、我が家の卵焼きはこんな味付けだった、こんなデザートはテンションが上がった、とか、あの時のお弁当箱はこんなので、なんて思い出もあるかもしれません。 私は、市の体育大会の日にお弁当を作ってもらえなかった思い出が、お弁当の代名詞になっています。作ってもらえなかった理由は、やはり「成績」にありました。体育大会の前日に結果が公表された模試の成績が思わしく無かったのです。 元々はママ友グループで
来たる決戦の日、私は御三家の受験を迎えた。 御三家を受ける娘に対する母親の気合いの入り方は凄まじいもので、自宅から校舎まで大目に見ても1時間とかからないのに、前泊の宿までもが手配された。 前夜はクイズ番組を見ながら嵐のファイトソングを聞いたり、受験勉強が始まって以来、珍しく穏やかな晩を過ごし、当朝は、峯岸みなみが白濱亜嵐との熱愛の断罪として丸坊主になっている姿を眺めながら、どん兵衛のうどんをつるりと啜った。 肝心な当日の記憶は、殆ど残っていない。精密に言えば、あまりのシ
ある年の初夏、ある日突然、片耳の聴力を失った。 厳密に言えば、限りなくゼロに近い聴力状態。そして、激しい目眩が常に付きまとい、椅子に座って会話をする事さえ出来なくなり、仕事中にデスクで蹲ってしまったり、隙あらばトイレに駆け込んで便座に突っ伏している時間が日に日に増えていった。(休職直前はトイレで1時間死んでた日すらあった) この時点で疑うべき事、案ずるべき事は山ほどあったはずなのに、過去にも聴力を失った事が2回あった(家庭環境のストレス/アルバイト先でのパワハラ)故、「ん
ふとnoteの存在を思い出して、戻ってきました。 死にたくなるのに、理由なんてないのに。 どういうわけか、人は皆、「死にたい」と呟く人に、理由の言語化を求める。それが出来ないくらい疲弊しているから、消えたいだけなのに。 今日の昼下がりにスーパーへ行くと、某パンメーカーが販売する、安価なロールケーキが売っていた。 「あれ、美味しいんだよなー。」なんて思いながら、頭の片隅にある肝臓の絶望的な数値と、それによって余儀なくされた食事制限の記憶を引っ張り出し、代わりに安売りされてい
〜同級生のサンドバッグになった3年間〜 前回、塾内でイジメにあっていた事に少し触れましたが、今回はその続きからです。 私の通う塾は、地元密接型の小さな塾でした。生徒数は120名程度。小規模ながら、しっかりクラス分けも行われていました。学籍番号で張り出しますが、月日が経つにつれて、皆学籍番号と個人名が一致するようになり、実際実名張り出し制度でした。最初こそ同じクラスになれた事を喜んでくれた人達が、1人、また1人と、私が同じクラスにいる事を嫌がるようになりました。私は1番上の
今日は閑話休題、毒親から注入された毒をどう解毒しているのか。 カウンセリングについて書きます。 ちなみに、私のカウンセリング前の状態は「鬱状態」のようなもので、無理やり実家に閉じ込められていたコロナ初期は本当に酷く、トイレとお風呂以外は部屋から出られない、人と話せない、人の目が怖い、寝ても覚めてもぐったりしていて起き上がれない、不眠症となんとも悲惨でした。 一時期ストレスが人生最大値を振り切った時には、包丁を振り回して布団を突き刺しまくり、「死んでやる」と言ってベランダか
アメーバブログでも、「未完成のアルバムを。」シリーズを投稿しているのですが、思った以上の反響でビックリしてしまいました。自分の余裕のある時に執筆しているので更新ペースは遅いですが、少しでも誰かの支えになれたら嬉しいです。 実はこのタイトル、私が小学生の時から決めていたんです。当時、こんな自分の境遇を将来どう伝えるか日々考えていたのですが、そんな時に思い浮かんだのがピエロの絵とこのタイトル。中々斬新ですよね笑 〜特売免罪符、アナタノタメ〜 私が大嫌いな言葉の中に「貴方の為
今日は屡々世間で話題に上がる「親ガチャ」の話を交えて、まず私が虐待に気付き始めた頃の話をします。 〜私のお母さん、凄く怖い。他の家もこうなの?〜 事の発端は幼稚園の年中さんくらいの時。何が発端だったのかは記憶の彼方ですが、遊びに来た友人が我が家から帰った後、その子の姿が見えなくなった瞬間に私は母に大声で怒鳴られました。 さて、ここで問題です。この時の私の感情は? ①怒り ②疑問 ③悲しみ 答えは②の疑問でした。発端こそ忘れていますが、確かな事は「決して怒られる事
初めまして。星野美郷と申します。 初投稿がてら、軽い自己紹介と「私について」お話させて下さい。 〜私について〜 私は物心ついた頃から、両親からの虐待を受けて育ちました。虐待にもネグレクトや育児放棄など様々ありますが、我が家の場合は世間一般の「虐待」に対するイメージに近い、「暴力」「暴言」を目一杯に多用した虐待でした。成績が悪ければご飯は貰えない、気に触る事を言えば殴打、帰宅したら私の私物は全てゴミに出されていたり、教科書やスクールバッグはベランダに捨てられる。全て書いて