『詩編 堅香子の粉』のオシが厚めだ うれしい。※ネタバレ注意
noteでもアメブロでも『詩編 堅香子の粉』のオシが厚めだ うれしい。
沙琉り沙琉り~という造語の評判もおかげさまで好評のようだ。
トリセツに通じてくるのであまり深くは書きたくないが、この詩の最大のポイントは、最後の「そんな儚を見た」という一行にあると感じてくれればありがたい。この一行で足元がガクガクグラグラとしたものとなることを狙っている。
「どっちだ… どっちの"ゆめ"なのだ」
そこのところを、それぞれに投影して読んでもらえればそれぞれに落としどころはみつけられるだろう。
私の"する"詩は、抒情詩に偏る傾向が強い。
昨日アップした『詩編 蚯蚓の哥』などもその最たるものだろう。
『詩編 雨に詩えば』、『詩編 百花繚乱』、詩編『 道 程 』もそうだ。
個人的に書いてみたいものは"劇詩"形態の詩であり、これなどは小説を書く上で大いに役立つだろうと感じている。
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因みに『詩編 蚯蚓の哥』はわたしお得意のアイロニーを滲ませた詩編である。
冒頭の"みみず食みます何を食む
樹にはのぼらず厚くつもった落ち葉食む"の一節で"樹にはのぼらず"という節がある。冒頭のここに不調和、違和感を持っていただけたらアイロニーは実像を伴わせやすい。
「世一はなんで樹にはのぼらずをこんな所に置いたのか……」
まぁ、これはわたしの作品の読み方なんだけどね(笑)
さて、どういうことかと云うと、諺(ことわざ)に「みみずの木登り」と云うものがあるのだが、無理なことをやろうとする者を揶揄、馬鹿にして使われる、人間の傲りをあからさまにした諺なのだが、その人間に馬鹿にされていたはずのミミズが自然界に与える影響を舐めたが故、結果、凡てが涸れ果ててゆくという、人間の愚かさを詩った作品なのである。
しかし、この対極に「みみず、時至りて龍となり」という諺(ことわざ)
がある。
蚯蚓かえるどこかえる
龍の寝所へ召されてかえります
人間に馬鹿にされていたはずの「みみず」は、龍の寝所へと召されてゆくのだが…… さて、人は何処へと帰ってゆくのだろう。というお話し。
頭の伏線を
最期で拾うという形
古いのだよ(笑)
古い諺(ことわざ)が自身に刻まれていなければ、お若い世代には読みにくかろう。
「あ~ぁ…… こういうものを書く人なんだなぁ」程度に留めて頂ければ有難い。
ただ、踏み絵とトラップはゴスペルの常道。
わたしは詩も小説もエセーもゴスペルしか書かんわね。
んで、こんなものばかり書いているのだわ(笑)
可愛がってね♬
二度とかかんよ。取説なんか。
さてちなみにだが、筆者と同じ年の青大井空 氏が、今日の午後「ミミズ」というタイトルの詩を書いておられる。美しいイノセントな詩だ。逆立ちしたってわたしには書けない。宜しければ遊びに行ってみて欲しい。
尚、氏はe-pubooでも無料の作品集をリリースしている。とても精力的にアップしておられるので是非お訪ねしてみてほしい。
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