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小説『 細 氷 』"17のDiamond dust" ①

 昭和××年1月××日
 深夜二十一時三十分。

北緯四十三度に位置する小さな町のバス停

一人の若く美しい女が降り立った

若く美しい女はバスでやってきた

雪が堆積したバス停に若く美しい女を堕とす

降車客は若く美しい女ただ一人

もちろん乗車客などはいない

二十一時半の深夜だというのに

ガラガラというけたたましいエンジン音を響かせバスは走りだす

タイヤに巻かれたチェーン

所々に露出したアスファルトを噛む音が深夜の町にコダマする

チャイチャイチュリチュリ……チャイチュリ

バスのテールランプブレーキ灯

後ろ髪を引かれたように時おりその赤いあかりを灯す

パク… パクッ

「こんな時間にこんな所で降りるのか」
ブレーキ灯の点滅はそう云っているように思えた。
 取り残された若く美しい女はバス停に佇んでいる。
白いEMBAのヤッケに千鳥格子のキュロットスカート。ロングブーツ。
白と紺に赤の毛糸の帽子には雪の結晶柄が編みこまれていた。
 肩下十五センチまで伸びているであろうストレートロングの髪が三日月の明かりを浴びて艶めいている。雪明りと相まったそれは、深夜、寝入りばなの町を幻想的とするに相応しいとさえ思えた。
 若く美しい女はバス停の前で革手袋をはめた右手を鼻と口の前に持ってゆくと振ってみせる。
 手を振っているように見えた。
バレたのか。そう思ったがバスが残した排気ガスに噎せ返ったであろうことが見て取れた。

 寒冷地特有のバス停は掘立小屋を思わせるほどの粗末な造りだった。
髪の毛をアップにし、割烹着を着け、鍋の中からカレーを取り出すおばさんの看板が、錆びつき劣化したのだろう。
 一か所だけのビスは効いていたものの時おり吹き上げる風にあおられガシャンバシャンと哭いている。強いつむじが粉雪を巻き上げ深夜の町を奔放に行き交う。
 俺は掘立小屋バス停の陰にいた。
所々破れたバス停の壁の穴から若く美しい女を見ていた。
盗み見ているのではない。脅かしてやろう。
 俺の目論見は経験したことの無いような胸の高鳴りを前に早々と挫折する。自分でも驚くほどの早鐘が胸を打つ。期待と不安が交錯し、今夜、これからのことに思案を向けるだけで氷柱は灼熱をともないその先端からは溶けた雫をあふれさせる。降り積もった雪をかき分けるための除雪車でも通った後なのだろうか。道路わきには堆く(うずたかく)雪が寄せられていた。
 若く美しい女は除雪されたあとであろう、雪に黒く滲んだ軽油と灯油の混合排気ガス特有の痕跡をみつけると、黒く煤けた雪を足で覆い隠すように掻きならしていた。

「カヤ……」
 若く美しい女がバス停に降り立ってから三分とは経っていなかっただろう。俺は何事もなかったようにその女の名前を呼ぶ。女は元林茅野、十七歳、高校二年生のクラスメートだ。
「もう……、こうくん、寒い~せばすんごいシバレルね」
茅野は驚くわけでもなく嬉しそうに俺の顔をみた。が、その目元は赤く腫れあがり、二重の大きくエキゾチックな輝きを湛えていたであろう瞳は充血をみせている。
 若く美しい女の泣き顔というものを見たことは無かった俺はそのあまりの美しさを目の当たりに言葉を失っていた。
【カヤ、おまえきっと帰るべきだったよ。バスに乗り遅れたから今日は帰るね……そう電話を入れれば済んだはずなんだ。そうすれば今まで通りだったはずなのに。今まで通りお前の親友、俺の彼女のメグの彼氏のままで居られたはずなのに。おまえの美しさに気付かずに済んだのに】
 俺は茅野をほんの少しだけ恨んだのかもしれない。言い訳じみたなけなしの理性が最後の一滴を垂らしたものだったのかもしれない。失うものの大きさにすら気付かずに。

 真冬の寝入りばなの町は数分と待つまでもなく空気が凍る速度をはやめる。茅野のまつげが白く凍りはじめていた。「カヤ、お前のまつげ折れるぞ……」俺はそう云いながら自分の右腕をまくり上げると、腕の内側を茅野の目元に近づけ「早く目をつけろ」と促した。茅野は目を閉じると腕を両手で捧げ持ち自分の目に当てた。皮手袋の冷たさが俺の熱もった腕を冷やし、茅野の肌のぬくもりが俺の腕を力強く覚醒させる。
「ありがとう……、溶けたとけた」そう云うと目を腕に押し当てたままゴシゴシッと左右に振ると大きく鼻をすすって星空を見上げる。
「こっちまで来ると星が綺麗だね」
「悪かったな、田舎で」
 茅野は頬を伝う溶けた水滴を皮のスキー手袋の背で拭いとりながら笑ってみせた。
【ヤバイなぁ……これ、絶対のピンチだ……、若い女の泣き顔って初めてみたけど……なまらめんこい。あぶらっこ過ぎるだろ。あの泣き顔みせたあとにニコってするのは……反則だべ】俺の頭の中では奇跡とも呼べる印象をもって若く美しい女の泣き顔と笑顔はその存在を刻んだ瞬間となった。当然のことながらこの時点の俺はそれに対する免疫はなく、後に知ることとなる女というものの多様性、そして必殺技の一つでもある使い分けの秘儀が隠されていることは知る由もなかった。

 木村浩介十七歳の俺は北緯四十三度の地方都市のはずれに住んでおり、この夜、急遽自宅に来ることが決まった元林茅野をバス停まで迎えに来たのだった。

少女と少年 二人の吐く息が凍る

中空を揺蕩い

絡まり合いながら……

みずからの浮力を失ったように

それは下へと堕ちてゆく

月明かりをあびキラキラと輝きながら

それは下へと堕ちてゆく

北緯四十三度の地方都市のはずれにある町。
時刻は深夜二十一時三十九分だった。

②につづく




太字注釈
※せば……したら、そしたら、なんだかをはじめとする「接続詞」の一種。類義の常用接続詞としては「したっけ」が挙げられる。
※しばれる……方言の王道。The king of 方言 凍えるほど寒い様子。
※なまらめんこい……スゲー可愛い
※あぶらっこい……"なまら"の最上級。あわせて「なまらあぶらっこい」とすることもある。
尚、ここで使われる"方言"は40~50年ほど前に当地の若者の間で使われていたものであり、現在は使われていない場合もある。

尚、一人称は絶対に「僕」ではない。バイオレンスではないがここは。「俺」が常道である。ここでの"僕"は気持ち悪いのである。



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