作 飛鳥 世一 ショートショート「尋常なる異常という日常」俺流解説編
作 飛鳥世一 ショートショート「尋常なる異常という日常」俺流 解 説 編
2024/12/15/20:30アメブロオフィシャルブログでの上梓 転載
さて、有難いことにアクセスと評価を手厚くいただけているようなのが何よりです。心から御礼申し上げます。素人ですから嬉しくて仕方ありません。
だからと云って、調子に乗って解説を書いたわけではありません。
悪しからず。
作者の客観的な見方として、言葉の選択にはまだまだ緩さと甘さは否めません。美しくない。言ってみれば選択する言葉が幼稚だ。もっともっと汗をかかなければ駄目なのです。
しかし、お話しとテーマの組み立ては納得の仕上がりだ。
これは書ける。書けるものなら書いて味噌汁と。わたしらしい~という意味でね。だいぶ"リハビリ"としては仕上がってきたようでもある。んなもなぁ、誰も褒めてくれないのだから、自分で褒めるのだわよ。どの道、誰かに何かを云われたって、はいそうですかと聞くタイプじゃないのである(笑)
ただね、わたしの場合、秀でたものに触れるとね直ぐに"参りました"となれる。そして嫉妬する(笑) ただし乾いた嫉妬。嫉妬に関しても粘着質は持ち合わせていないのである。したがって、他人様を恨むということがない。ある意味鈍感。動くときは早くて客観的。一点全集中なのである。小説書いてもテーマが決まればショートショートなら早い。
今回の作品の場合は、タイトルありき。実際に、目にしたことを絵画を触媒にデフォルメ。考えると、書けることは山盛りではある________のか。 宜しければ、心が健康な状態のときに、お楽しみあれ。
タイトル 「尋常なる異常という日常」
自画自賛になるが、まずもってこれが良い。
何がどう良いのか。
テーマを忍ばせやすいタイトルでもある。
意味深長……ぽい。ぽく聞こえる。ぽく読める。
こういう持ってまわったタイトルは、なにか今風でもあり嫌いではない。
問題は、作中への忍ばせ方となるのだが、ザックリ書かせて頂くと3340字を4つのステージに分割している。プロットなどと偉そうに言える代物では無い。
■最初のステージで兄弟を背景として日常、尋常、異常をふわりと滲ませている。ここではタイトルに関わる言葉は使っていない。
■次に、フラゴナールの「ブランコ」という画を触媒に尋常、異常、日常を炙り出している。「あ~、世一はここでタイトルを拾ったのか」と思った方もいるかもしれない。しかし、これは次のステージへの伏線に過ぎないのである。
「次のステージ ? 」そう。あの少女との遣り取りへの伏線なのだ。
あそこがこの作品の肝である。
もう少し書き込みたい気持ちも働いたが、これ以上は恣意的が勝ると思え、必要最小限に抑えた次第。
■読んで頂いて分かっておられる方もいただろう。
自殺をしようとする少女が頼む出前。
自殺をしようとする少女を前にしたデリバリーの兄ちゃん。
血まみれの少女。
お金を血で汚さない気遣いが出来る少女。
商品説明をする兄ちゃん。
外に出てまで味噌汁を入れようとする兄ちゃん。
ここに、本来の「尋常なる異常という日常」というタイトルを文字を使わずして埋めた。
■最後のステージではまとめとして「尋常なる異常という日常」というものを通じて社会に潜むものへの風刺を滲ませて纏めとしている。
触媒として引っ張り出したフラゴナールのブランコという絵画作品があったからこそ、効かせをみせることが出来たショートショート。
■メタファでありアレゴリーの使い方は書くまでもなく、私チックなものに仕上げたつもりだ。
死を予感させる一節
男を悦ばせる仕事に結びつく幾つかの言葉
生の対極である死の対比
作中、幾つかの躓きであり、幾つかの疑問が首を擡げてくる人も居るかもしれぬ。そうするとまた愉しくなってくるのでございます。
本来、書き手が自らこういうものを書くべきではない。
話しにならない。
書かずとも、分る人は分る。それでいいのだ。
なのに何故書いたのか。それは、わたしが分かっていれば良いのである。
因みに、直近で書いた3本のエセーが連作だったことだけは知っておいてほしい。
絵画はね、小説と同じなのよ。詩と同じなの。
『一筆一筆色を入れるのが絵画。
眼に見えぬ言葉をのせて
ならば想像してみるしかないのである。聞けないのだから』
フラゴナールのブランコなどは比較的に「弄りやすい」かもしれぬが、重層感が感じられなければ薄く、淡白になりがちにもなるだろう。読み疲れしないショートショートぐらいが手ごろかもしれぬ。
久しぶりに書いていて楽しいものを書けた。
筆がのったという意味でね。
内容は楽しいものではない。
了
別に調子に乗ったつもりもない(笑)
知っておいていただければ有難いのは、エセー3本とこのショートショート1本が連作となっているということ。
わたしがよくやる手だが、届く人に届けば良いのである。