随想夜曲『コンプリートしたテキスト蒐集』
カラヴァッジオの勉強には事欠かぬだけの資料はある。とは云ってみたところで素人が必要とするレベルなのだが。まぁ、読むに耐えないものとはならないものを書けるだけは揃っている。どれもこれも一流どころだ。
あとは書き手本人の腕の問題だ。
全く無かったのが今回のラ・トゥールの資料だったのだが、多分、今回集めただけでは最低限ということかもしれない。しっかりしたものを書こうと思えば、もう少しアカデミックに振れたものが必要になるのではないだろうか。が、穿った書き方をするならば、わたしのような素人の場合、これらの資料というものの存在価値は概して「お守り」的な意味合いも無くはないのである。
ゴルフコースに出たときの「7番アイアン」みたいなものであり、ティーショットあと2打目以降、常時持ち歩くアレだ。はたまた釣りにでも行き、狙った獲物が釣れない時の「アジのサビキ針」みたいなものか。
昔の人は偉いものであり、こういう人間を称する「ヘタの道具立て」などと侮蔑する諺をキッチリ用意していた。
上手と下手の見分けは簡単~ん~~ハァ~トテチン♬
道具の多いが下手くそで~ぇーぇぇぇ♪
◆
貧乏だと、したい勉強も出来やしない。やりたい研究も出来やしない。これは辛い。やりたいことがあっても凡て諦めなければならなくなる。まぁ、今の時代、貧乏でも「1円」あれば本が買える時代でもあるようなので、上を見なけりゃ妥協点は探せるようだ。
例えば、柳原 慧先生の「いかさま師」の文庫本は1円だった。送料が240円と云うから、送料が本の240倍の価値という馬鹿げた状況。なにか"いかさま"にも感じられるが。
柳原先生、新書で買えなくてごめんなさい。今度買わせて頂きます。
一つ感じられることは、こういう本を持っておられたであろう人間に対して向かう興味なのだが……ある意味わたしは全面的に信用している。会ったことがなくても全面的に「あなたが持っていらした本ならば。大切に読ませて頂きます」そう言う気持ちになれるのである。これは不思議だ。
これはたぶん本読みにしかわからない感覚ではないだろうか。様々なユーズドが出回っている現代ではあるが、本読みというものは本に愛情を捧げる生き物なのだ。
芸術新潮は今から18年前の本である。
創元社のジョルジュ・ド・ラ・トゥールも18年前の本である。
宝島社 柳原 慧 「いかさま師」は16年前。
これまで幾人の手を経てきたのだろう。どれほどの人々を豊かにして来たのだろう。一つ書けることは、どれも状態はよく、芸術新潮にいたってはまるで新品、完品の状態を誇っているかのようだった。
読みたかった宮下規久朗氏の欲望の美術史も手にできた。
8月の10日も過ぎれば勉強もできそうだ。ぶっちゃけ勉強しなければ構想も組めないのだ。
大事に読ませて頂きます。
世一
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?