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『新章・鱗粉』あとがき ■死するとき殺すとき生かすとき
宗教上の教えが延々と書かれたものには幾つかの種類がある。
概ね神の御言葉であり、その弟子であり預言者と云われる者たちの口伝が活字になったものだ。
バイブル……聖書・聖典
ゴスペル……福音書
ドクトリン……教義書
さて、この三冊に共通したものは何かと云えば共感を目的としてはいないということになる。人間の持つ本能に語り掛け、感動を呼び覚ますことを目的としている。教会や宗教団体の会合などに行くというと敬虔な信者は神のみまえに手を合わせ涙する。これは神と神の御言葉によって感動が呼び覚まされた結果によるものである。
が、その神と神の御言葉を触媒として共感を得るのが人々の前に立ち説教をする人々となるのだが…… 。
説教をする者がバイブル、ゴスペル、ドクトリンだけを信者の前で朗々と朗読しただけでは感動も共感も得ることは出来ないのである。
「おいおい、説教師殿。神は我が身前にありてこれと対話しておるにつき静かに祈らせ給え」と云われかねない。
さて、そこで代弁者の衣(威?どっち? 忘れた……♬)を借りた説教者は一計を案ずるのだ。人々にもっと分かりやすく、もっと身近に、もっと入りやすい言葉が必要であると。バイブルもゴスペルもドクトリンも小難しすぎると。読んで理解できる者など一握り、分かりやすく親しみやすい言葉が必要であると。
さて、小説を書く側に身を置いてみるというと、どちら側にもなれることがわかる。感動工場製造直売人にもなれれば、共感ファシリテーターにもなれるのである。貴兄・貴姉たちはどちらなのだろう。
今般、小説・鱗粉のSide Bである「新章・鱗粉」ソードの9とジャッジメントを書き下ろした。お陰様で今の時点でも望外のアクセスを頂戴している。
概ね二日で250件のpvだ。これがnoteに参加し、活動をはじめて二週間と考えたとき多いか少ないかは定かではない。わたしには確認する術がない。しかし、Side AがBをアップする前に170件であったことに鑑みるのであれば、およそ1.5倍のpvとなるからして、Aに対する評価が低いものではなかったであろうことが客観的に、数値として示されたと見ることは吝かでは無かろう。
同時にシナジー効果でSide Aは34件pvをのばし、本日現在200を超えている。この34件の存在には頭が下がる。確実に読み比べであり理論値の精査に入った存在だろう。とてもではないが私の様な凡人には真似ができない向学心の表れと感動したと同時に感謝と畏敬の念を抱いた。
世の理(ことわり)を顕すが如く、続編の評価は弱い(笑)
初作の評判から動員数は増えたものの"スキ"は数字だけみるなら2割減。
がわたしとしては、観客動員数に見る表には出ないスキを感じることが出来ていることは付け加えておかなければならない。またそれとは逆に人としての不条理であり不見識を強く感じた読者がいたとしても、これまた然りと始末をつけておくのも書き手の責任だろう。そういう作品なのだ。
ただ、超えても書かねばならぬと信に足れば書く。
わたしにはそれが書いて生きる覚悟に感ジラレルノデアル。
さて貴兄・貴姉が今回の作品のようなものを書いたとき。
ここの諸先輩なら「美弥」をどのように扱ったか問うてみたい。
結果的に、わたしは殺せなかったし死なせられなかった。
実のところ、わたしはこれに丸二日ほど葛藤をみている。
神にはなれなかった。
いや寧ろ、今の社会システムに倣ったときわたしは人間にすらなれなかったのかもしれない。
裏テーマである。
ただ…… このSaid B。美弥麻を登場させなかった場合、作品の意味自体が水泡に帰したであろうことだけは確かなのだ。栗の入っていない栗羊羹。栗の入っていないモンブラン…… チョコレートを使っていないザッハトルテである。
読みやすいものとするために、平易な言葉とするよう腐心したが、書くごとに真弓への愛と美弥への愛が深まり、感情移入をコントロールすることすら辛かった。「ここで殺すか……」「ここで死んでチョウダイ……」書きながらも葛藤はあった。
Side Aは、純文らしきテイストに仕上げている。
Said Bは、エンタメ色が強く出ているのだが……
実のところはAより重いのだ。
所々の詰めの甘さはある。
ただ、最初の真弓の一人語り(回想)までと最後の数行。最後の数行は自分で書いたものなのに胸が熱くなった。
きっとそういう苦しみを抱えた人たちがいるのかもしれない。
いや、今の社会システムに倣ったときには確実にいる。息をひそめ、息をコロシ、お天道様をさけ日の当たらぬ道を歩くことを余儀なくされた人々が。幸せとは何かを星々に問いかける人々が。 LGBTと括られる人々にとっては「生産性」という政治家ですらが使う誤った見識が流布され、子孫を残すことが善であり、残せぬものは悪であるという風潮が滓のように社会のつなぎ目に入り込みこびり付いている。
自分の兄しか愛せない。自分の妹、姉しか愛せない。それが愛であれば良いではないか。人、それぞれなのだ。特別視することなど無いだろう。
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さて、最後に一枚の画を紹介して締めくくりに寄せたい。
旧約聖書外典版のロト記のワンシーンを切り抜いて描かれた、今の時代ではセンセーショナルと呼べる題材を扱った作品だ。
ジョバンニ・フランチェスコ・グエリエーリ作
ご存知の御仁もおられるように、これは「塩の柱」にされたロトの細君を置き去りにして逃げた、父親ロトとその娘たちの話しなのだが、さて、この娘たち、実の父親と子作りしてしまうのである。
いつになく饒舌な姉
妹は父に酒を注ぎ酔いを促す
凡てを悟ったように父の目はいつかはその明かりを落とす焚火へと注がれ
口は真一文字に結ばれる
なんと見事な画だろう
光と影は闇の支配下にあることを思わせる
この画は、今から三年ほど前に日本にも来ている。カラヴァッジョ展があった時の他作のひとつとして来ていたのだが、わたしが最も時間を費やし眺めた画の一枚である。
わがオフィシャルブログでも紹介していたが、この画を題材とした小説を書くことを決め、既に少し前から書きだしている。
「✖✖✖✖うっ✖✖✖あ! えぇぇ!!✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖ふぅ……」こういうものでページが埋まらないものを書いてみたい。
この度は関連作品1位から5位まで凡て、鱗粉が独占。総PV数9:44現在、5作で1026件。
皆様の温かなお心遣いに心より感謝申し上げ、謹んで御礼申しあげます。
一作でも多く作品作りに励んで参りたいと存じます。
年末です。ご自愛たまわり、ステキなクリスマスと年末年始をお迎えくださいますよう。
あとがきに寄せて
2022年12月05日
飛鳥世一