憑き物を落とす話

 何を奇矯な、と思われるかもしれないが、私にはいろんなものが憑いている。

 それは、「価値観」というオバケだ。しかも、自分で身に着けたもの、選び取ってきたもの、好ましく思って取り入れたもの、ではなく、いつの間にか気づいたら頭蓋の周りにびっしりかぶさっていたような、肩のあたりから背中全体をずっしり押し潰すような、しかも、そうなっていることに自分自身で気づかずに、「ああ、なんだか苦しい、辛い、怒りでおかしくなりそう」とつねにうっすらと感じ続けている、まさに「憑き物」としかいいようがないもの。

 あるいは、「呪縛」と言ってもいい。

 私の母は厳しいひとで、その厳しさは「人格の高潔さ」とか「自分を律し、生まれ持った才能をよりよく活かす」とか、そういう方向性とは残念ながら無関係なものだった。

 母なりに、愛情を注いでくれたのだということはよくわかっているけど、しかしそれゆえに、私は貰ったものが愛なのか毒なのかわからず混乱して、でも愛情がほしかったので、「これは全部、愛」と信じ込むことで生き延びてきた。そしてその結果、自分が子どもを持ってから大恐慌に陥る羽目になった。

 自分が愛だと思うものを、注いでも注いでも、子どもが応えてくれずに、ある時期からどんどん壊れてゆく。

 親が与えたものに応えることが、そして望む通りの結果を出すことが、子ども側から示しうる唯一の愛情表現であるのに、私の子どもたちは頑として応えようとしない。思い通りに動いてくれない。私を困らせ、悩ませ、苦しめて、辛い気持ちになるようなことしかしない。

 そんなにお母さんが憎いのか!と、泣き叫んだことすらある。幼児に向かって。そのくらい私は追い詰められていた。

 その時期に私がやりたかったことは、子どもの「自我」に自分が乗り込んで、「私が」、私の思うように、子どもを動かすことだった。だけど、それがどんなに狂っていることなのか、私にはわからない。

 なぜなら、私自身がそのときまで、「母」の自我の乗り物だったのだから。

 現実には、私の母は、今の生活には何も干渉してこない。時おり、近況を教え合ったり、ごくたまにタイミングが合えば食事をしたり、そういうことをしても私が母の影響で何かおかしくなることもなければ、「お母さんに怒られないようにちゃんとしなくちゃ!」と怯えることも、無い。現実の母は、今は、私には何も影響を与えない。

 でも、私の人格に食い込んでしまった「幻の母」が、その価値観が、頭の後ろでつねに呪いを吐き続ける。そしてそのことに、私は気づかないまま、縛られて生きてきた。

 自分で何が好きなのか、何を選んでいいのか、何かを自由に決めることも、あるいは決めないことも、何もわからなかった。できなかった。「そういうことをしてもいい」なんてことすら、知らなかった。考えたこともなかった。

 ある日、「私とお母さんは違う人間で、違う人生を選び取って生きてるのだ」ということが、雷でも落ちたかのように急に理解できた瞬間があった。

 そしたら、「えっ…?当り前じゃない…?当たり前すぎない…?」って震えた。今までそれが見えてなかったことに戦慄した。見えたらわかるのだ、「見えてなかった」ということが。

 それが見えたら、「憑き物が落ちた」ように、頭がスーッと軽くなって、視界が明るく開けて、そしてやたらと涙が出た。そうか、私は私なんだ、私が感じて、私が思って、私が選んで、私が決めていいんだ。嘘みたい。選んでいいなんて。決めていいなんて。でも、いいんだ。知らなかった。いいんだ。

 それが「落ちた」あと、自分の子どもたちを見たら、「わぁー、なんて私と違う人々なんだろう!まったく理解できないな!でも面白いな。この人たちは、これからどういう価値観を築いて、何を選んで、何を決めていくのかな~!」という感想以外わいてこなかった。それにまた戦慄した。今までは、「理解できない」ことを嘆き悲しみ、いくら私が「まっとうな道を説いても」聞く耳持たず、反抗したり、逆らったり、無気力になったり、とにかく私を自我に乗り込ませてくれなかったのだから。

 今は、「私があれだけ圧をかけても、頑として『母による自我の乗っ取り』を拒否してくれて、ありがとう、強い子どもたちよ」と感謝の気持ちしかない。ほんと強い人たち。彼らにあれだけ抵抗されなかったら、私はやすやすと子どもの人生に乗り込んで、意気揚々と操縦したことだろう。

 ひとつずつ、憑き物を落としていく日々。それがいつ落ちるのか、どのタイミングで落ちるのかは、予測がつかない。あとどのくらい憑いているのかもわからない。「もうこんだけ落としたんだから、だいぶ軽くなっただろ!」って調子に乗って生きていると、また足元を掬われたりする。

 「それ」が憑き物だとわかる瞬間は、自力だけで作り出すことはできない。信頼できる人間と会話しているときに、突然、会話のトーンが変わることがある、そこが分岐点だと思っている。

 それまで、ウンウンと聴いてくれていた相手の動きが、ふっと止まる。こちらを見る目に、なんとも言えない表情が宿っている。ややのちに、言いにくそうに、「………それねぇ、………たぶん、何か『憑いてる』と思うよ」と言う。

「えーーーーーーっ!?みんなそう思わないの!?これ普通の考え方じゃないの!?ナンデ?ナンデ?」と、憑き物の断末魔が響く。

「そういう考え方もあってもいいし、でも、こういう考え方もあるよね」と受け入れられるならば、それは憑き物ではなくて、単に「価値観のひとつ」だ。

 だけど、反対意見を言われると狂ったようにさらに反論をかぶせたり、何が何でも相手を言い負かそうとしたり、絶対に折れられないと強く感じたり、相手の意見を取り入れたら負けだなどと思ってしまうなら、それはね、「憑き物」だから、成仏させた方がいいと私は思っている。

 憑き物を落とすと、スーッと楽になるし、何よりも、「なぜそれを憑かせたままで生きてこなければいけなかったのか」ということが、はっきりわかる。

 それは、そうすることでしかそのときを生き延びられなかった自分の、精いっぱいの、最大限の頑張りなので、「そっか、私頑張ったんだなあ、でも、もう楽になっていいんだよ」という気持ちになれる。自分のことも許せるし、自分以外の全てのひとのことも許せる。

 どんな人生も、ただひとつの、かけがえのない、大切な愛おしい物語なのだと、心から思えるようになる。ここからがほんとうの「始まり」なんだなと思う。

 私の人生の旅、これからどんな景色が見られるんだろう。


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