「伝える」ということは生きるということ、「伝わっている」ということは、生きているということ。
梅雨のしとしととした天気から少しずつ夏めいた季節に変わるこの時期になると、毎年ふと聞きたくなる曲がある。それは、故不可思議/wonderboy氏の「Pellicule」と「生きる」という2曲である。この曲は私が、人と関わり言葉を扱う仕事を続ける上で「伝える」とうことと「伝わっている」ということを常々教わったと思う楽曲である。初めてこの曲を聞いたのは大学の1年生時分に言葉をAdvocat(代弁する)することに自信がなく、目指すものに対し不安感を感じていた時だった。コミュニケーションや社会学を学ぶ中、論ぜられる事柄と自分にはその技量がないという現実に直面し、どうしたら伝わるのだろうかと言葉を伝える手段を考えていたそんな時だった。フリーペーパーでのコラム。写真につける詩的な言葉、そしてポエトリーリーディングに出会った。
ポエトリーリーディングとはHIPHOPの中の1ジャンルでとても優しい音楽であると思う。詩をリズムに合わせて読むというポエトリーリーディングは言語聴覚士を目指す友人から「吃音症の人でもリズムにのせると話しやすいってことがあるみたい何だよね」ということを聞き、リズムに乗せ言葉を伝えるということを我武者羅に調べていた時に、偶然youtubeでこの楽曲に出会ったのだ。
「伝える」ということは生きるということ
ポエトリーリーディングとこのPelliculeという曲から私が感じたことは大きく2つある。そのうちの一つが「伝える」ということは生きるということである。歌詞冒頭の「久しぶり、どうしたんだよ髭なんかはやして、肌も真っ黒だしヒッピー見たいじゃんか。みんなお前のこと心配してたんだ、みんなってゆうといつものメンツのことなんだけど」この部分で対峙している相手に対して「いつものメンツはあなたのことを心配していた」ということが伝わってくる。この曲の中で、過去への後悔や黄昏、様々な感情が渦巻いている。その中でも象徴的なのは「あの時は何にでもなれる気がしてたよな、いやでも実際何にでもなれたか、でもこうやっていろんなことが終わってくんだもんな、いや始まってすらいないか。」というフレーズである。語り描ける様で自問自答と、諦め、これからも生きていくという力が込められていると私は思う。言葉を伝えるということ、思いを伝えるということ、迷いを伝えるということは正しく生きることそのものだと思う。
「伝わっている」ということは、生きているということ。
この曲を知った大学時分、不可思議/wonderboyは亡くなっていた。初めてこの曲を聴いた時の感動ともっといろんな曲を聴きたい!と思った時、その前年に不可思議/wonderboy氏は事故で亡くなっていたということを知った。形容しがたいが何故か悲しい気持ちになったことを覚えている。しかし不可思議/wonderboyがまた、Pelliculeという楽曲が愛されてる為だろう楽曲が伝えたいこと、楽曲自体が伝播していくこと、不可思議/wonderboyが誰かの記憶に残り続けていることは、彼が伝えたかったことが伝わり、誰かの中で生き続けているということではないだろうか。
誰かに無視をされること、存在を無かったことにされること、人々の記憶から忘れ去られること、これは何処かで死を意味しているのだと思う。反対に誰か1人でもその人を思っていたりするならば、それは生きていることだと思う。
ネット社会により蔓延する個別死
LINEの既読スルーや、ネットでの誹謗中傷。繋がりがありそうでとても脆弱な現代で相対的な死ではなく、各関係間における「死」が広がっていると思う。繋がることが簡単な分、別れることも簡単で今までに感じたことのない速度で死の連鎖が続いている。孤独から脱却するには帰属できるコミュニティが必要であり、しかし帰属できるコミュニティもまた脆弱である。そんな現代ではあるが、不可思議/wonderboy氏が教えてくれた「伝える」ということは生きるということ、「伝わっている」ということは、生きているということ。コミュニケーションの全てを表しているとも思えることを忘れず、社会起業家見習い、ソーシャルワーカーとして私は今日も生きてゆく。
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