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『文藝 2022年秋号』
こんなに心を躍らせてビニールを破ったことがあっただろうか。中を空けてもずっと心がバタバタしていた。今度はとばずに、はじめからおわりまで、そうして読み終わるのに1週間とかからなかった。
『Crazy In Love』西加奈子
『炎上する君』『漁港の肉子ちゃん』『通天閣』でさえ感じなかった関西のノスタルジックがアメリカという場でついに私のエモーションに来た。
正しく、〈私〉と私が当てはめようとする大阪の関係性が、夏に大阪へ行ってたときからそのまま自分の抱えるものだった。
この内容を書くにはきっと痛みが伴ったはずだ。私なら日常生活でもこうして文章を書くときでも真っ先に逃げようとするその痛みを、目を背けずに書くのだなぁ。
まずは受け手として、どこかに隠れずに読むことができました。それが西さんの文章のパワーなんだと知った。
『「私小説」論、あるいは、私の小説論』千葉雅也
名前は一応一生ラベリングして付き合っていくものだ。名前で年齢が決まるはずもないのに、千葉さんの写真から見る印象と年齢を知って驚いた。
振り落とされそうで何度も戻って読み返した。内容が難しいわけじゃなくて、ちゃんとかみ砕いて置きたくて戻る。メモをとる。現代文を思い出した。私は現代文が本当に好きだった。
私小説、いや小説の概念の、ピントが合った。鮮明に見えた。
エンターテインメントと芸術について、つまりエンタメ小説と純文学について改めて言語化された思いである。
こうなるはずだ、からどれだけ距離を取れるか。なぜかこうなってしまった、のほうを見逃さない。千葉さんのフィクション、偶然性(取り替えが効くだれにでもおこりうること)の定義に慎重にならなくてはいけない。
そういえば、大学の講義で教授に質問をしに行ったことがあった。そんなことは数少ない出来事だったはずなのに何を尋ねたかは明確には忘れてしまったけれど、フィクションの設定に必然性はあるのか、というようなことを聞きにいったのだったと思う。
たとえば村上春樹は行ったことはない外国の情景をこんな感じかなと描写して、その道筋や建っているものが本当に合致しているといったことが起こるそうですよと教えてくれた。君はどうかわからないけれど、僕のような凡人には達することのできない領域なのかもしれないですねとも言い添えられた。
それがフィクションと偶然の「狭間」ということなのかもしれない。
『ほどける骨折り球子』長井短
まずタイトルが言い得ている。私には球子という名前も気持ちが悪い。その感覚も読後は正解だという風に感じられた。
勇、いいな〜〜!!
ずるいな、球子〜〜!!!
ということしか言っちゃいけない気がする。
愛(軽々しく使ったら球子に殴られそうだ)を原動力にして、勇が思考した言葉がその根拠だ。
俺は俺に近づきすぎている
それは時間って意味だから
許してもらえるかな、俺が? 球子が?
遠山のメガネを借りて世界をみる
ここに球子を好きがあります
俺たちはそれぞれ自分で自分の可哀想を管理する
しないとだめだ
そもそも「分け隔てはないように!」というプラカードがこわい。女芸人という職業に思いが及ぶ。これを書くのもこわい。笑わせられる女の人って、一体誰なんだろう。笑ってもらえなかった時に、そのプラカードを掲げてしまいたくなることがこわい。
おまけ
『浮遊』遠野遥
嫌な都道府県の使い方をするな〜と思いながら、かなりすいすいと読んでしまった。
トライアンドエラーを繰り返す感じ、『オールユーニードイズキル』の時評でその言葉を知ったほどゲーム用語に疎いのだが、いわゆる「覚えゲー」の系譜なのだろう。
一年前の秋号特集「怨」を引きずる言い方になるけれども、幽霊だって不安なのだ。
そしてゲームに出てきた美術館にふうかが行ったことがあった? という一点は気になった。
ふうかという名前が言い得ている若者の軽くて浮遊感のある感じは抱くものの、もの寂しくは映らなかった。娘として見られて、恋人として見たいように見られていることでもう十分じゃないかと思ってしまった。これ以上どんな風に見て欲しいというのだろう。ふうかの彼氏を落ち着かせるための空気の読み方も完璧だと思ったけれど、私の思慮が浅いのだろうか。
掴みきれなくて、すり抜けた感じがする。私が浮遊した。
過去を追いかけるのはここまでです。
(魔女・陰謀・エンパワメントも本当はちょっと惜しい、というわけで手に入れて追いつきました)
これからはいっしょにのっていくよ🏄
おしまい