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全治18ヶ月「愛するものから離されて想うこと」


友人は「相変わらず元気そうだね」と言う。

ちょっと仲の深い友人は「大丈夫?」と言う。

あいつらは「ラーメン食べ行こう」と言う。

無論、家族は何も言わない。



全治18ヶ月の経緯

大学卒業手前まで世間一般が考える就活をせずに、本気でサッカーで食っていこうと思っていました。そんな矢先に膝を捻り、一瞬にして目の前が”真っ暗”になります。MRI写真にはっきりと、”真っ白”に映る患部とのコントラストがこの怪我の大きさを丁寧に表してくれました。

ドクターからは「手術は2回。全治12ヶ月」と伝えられ、その瞬間に私の2024シーズンが終了します。


そして四季を超え、全治1年を通告された365日後。私はオペ室にいました。
靭帯は十分に再建していたのですが、ボルトが突出してきたことに違和感を覚え、ボルトの抜去手術をしていただきました。

オペも1時間程度で終了。2、3日で歩いて退院。2週間後には仕事も復帰する。
”はずでした。”


手術をする手前に、もし膝の中を見て異常があったら縫合して、100%治す方向で進めていいかと言う指示に承諾をしました。


そのifが起こりました。
まさかと思っていましたが、そのまさかでした。
前回縫った半月板の3分の2が切れており、緊急で縫合術をする運びになりました。


この結果、全治1年にプラス6ヶ月が加わったのです。
これが超端的にまとめた全治18ヶ月のプロセスです。


全治1年を振り返って

長かった。辛かった。苦しかった。


私に取っての人生の軸。ブレないはずだったのに、強制的に奪われるなんて…

もうどうにでもなれって投げやりの毎日。
寝て、起きても変わらない現実。
どう足掻いても変わらないのに、止まってくれない時間は酷で、儚い。
様々なギャップを目の当たりにして、押し潰され、自己喪失。
大前提、「大好きなものが1年間できないこと」を受け入れる器がなかった。


しかし、止まってくれない時間が逆に功を奏して2回の手術を乗り越えた。
この頃、流石に現実を見た私は、”膝だけ”とは向き合い始めた。


感情を閉ざして溜め込んで、反骨心に変え、リハビリにぶち当てる。ぶち当てるがふさわしくないほど、簡素で地味なトレーニングであったが…
淡々とやり続けた。
この怪我が与えるインパクトを自分だけに与えさせるため、二の矢を誰かに刺さないためにも孤独を選び、孤独を作り、孤独に励んだ。
今でもこの孤独は正解だったと思う。



少しずつ階段を登っていくようにまたサッカープレーヤーとしての自分に近づくのが分かった。


”そんな順調な時こそ悲劇は来る”
小説を愛好している私にとっては朝飯前のこと。



前項で述べたようにボルトが突出してくる違和感を覚え始めた。繊細な私は気になっては仕方なく、ナツノオワリを聴く頃には既に抜去手術を視野に入れていた。
いかんせん「アスリートもオフシーズンに取っちゃう人もいるよー」と、ドクターが軽く言うので。私も軽く前向きに捉えていた。


いやーやっぱ痛い。これ大丈夫ですかね。と理学療法士に相談したのは、11月だった。彼が、いやーわんちゃん…とか言うので、覚悟は少々できていた。少々。
その反面、リハビリはボールを蹴る段階へと進んでいた。
ボールを誰かと蹴る瞬間、ボールを止める瞬間、いやスパイクを履いている時とか朝起きて頭の中にサッカーがあることとか。全てが久しぶりで懐かしく、言葉に表せない感覚だった。
”懐かしい”と思わされるまでサッカーがない時間が長かったなぁ。
なんて思ったり。

実戦形式とは程遠い球蹴りだったけど、ただただ楽しかった。
手術前にやったボール回しなんて今までで1番楽しかったかもなぁ。



けど、そんなことよりも怖さが上回っていて、サッカーが目の前にあるのに遠のいていくような感覚を悟ったのも間違いなかった。



1年間で3度目のオペを終えて

「手塚くん、やっぱ半月板切れてた。手術延長するよ」
「お願いします」
オペ室3で実際にやり取りした文言である。
手術って意外とカジュアルに行われて、音楽とかも流れている。確かサザンが流れていたな。

入院する日、晴れ予報なのに雨降ってた。1年前も雨だった。
”思い出はいつの日も雨”ってか。


考えさせる暇を与えないぞと言わんばかりの激痛もまた懐かしかった。
いっそ激痛だけに耐えていれば良いのなら、こちらの方が有難いまであった。
日記を振り返っても、気持ちを落とさないように意識していたのを窺える。


そんな中でもお見舞いで頂いた花束には救われた。
花束を貰うことが、こんなにも嬉しいなんて思ってもいなかった。生活も食事も景色も質素な病院に、唯一の彩りがあった。


オペから1週間後松葉杖をつきながら退院した。
2、3日で歩いて退院するはずだったよね。2週間で仕事復帰するはずだったよね。とか考えたらお粗末。

家族の待つ実家ではなく、またしても孤独を選び、独り自分の家に帰ってきた。
久しぶりの外の空気は美味しいものだったが、外の世界に出るとどれだけ自分がちっぽけな者か、身に沁みる。疎外感もまた感じる。


花は枯れ、制限付き生活にも慣れてきた。
3ヶ月の休職生活を何としても意味のあるものにしたい。この一心で、下を向かないように耐えている。前を向こうと踏ん張っている。



けど本音は、
なんでまた俺なんだろう。
神様、こんなにやってもまだ足りないですか。まだダメですか。
俺結構やりきったのになぁ。
そろそろ報われないかなぁ。
なんかもう、疲れた。


なんてのが本音よ。
甘いですか?甘いのかな。この甘さが足りなかった部分なのかな。分からん。



そんな時の母誕生日おめでとう旅行。
風呂禁止を無視して入ったプラベサウナ。
ラーメンに行こうで啜った二郎。
とりあえずで行ったカフェの珈琲。

格別でこの上ない幸せで一生忘れなそうな気がした。


高校の卒アル、当時仲良しのグループ宛に綴った「一生続いていくでしょう」を気持ち良いくらい裏切る友好関係な今日を思ふと、一生なんて存在しないと懐うが。



伝えたいこと

2025シーズンプレシーズンマッチをテレビで見ている時だった。
物凄い高揚感、シーズンが始まりそうなワクワクが窺える試合を見ている時。


なぜか苦しかった。
人生で初めて、”サッカーを見て苦しかった。”
変な気持ち変な感覚だった。
観るのが耐え難く、ただただ苦しかった。



もうピッチで縦横無尽に動く自分の姿を忘れたからか。
感情を前面に吐き出すスポーツを忘れたからか。
サッカープレーヤーとしての自分を忘れたからか。


軽い認知症気味の祖母だけは、「サッカーをしている姿を見たい」と溢す。
涙が溢れそうになるのが分かって必死に堪える。
苦しい。
祖父母にはボルトを取っただけで良好。としか伝えていない。
不安材料を与えるメリットがないから。
それもまた、気遣いの嘘をつくこともまた苦しいのだ。
「いやー、またやってしまったんじゃないかと思ってびっくりしたよ」
なんて言うからより刺さる。


ちょっくら実家に顔出した際、祖父が見ろと言うので倉庫を覗いた。
そこには綺麗に磨かれて並べられた歴代のスパイクやトレシューの数々があった。


俺、サッカーしたいよ。って嘆きたかった。





Jリーグのある生活が戻ってきた。
白熱した大阪ダービー。
選手がゴールを決めて抱き合う瞬間、


私の目から涙が落ちた。



今まで涙が"落ちる"が腑に落ちなかったが、明らかにポタポタと落ちてきた。


どんな感情でどんな意味合いを持った涙だったか定かではない。
けど苦しかった。



自分の中で何かを受け入れて、何かを認めて、何かを諦めて、吹っ切れた瞬間だったのかもしれない。



ここに今サッカーをプレーできているあなたがいるのなら、どうか立ちたくても立てなかった、もがいても遠かった、やりたくてもやれない私のような思いを背負ってピッチにいてほしいと存じます。そしていつまでも私たちからの憧れで、カッコ良くて、眩しくて、あなたには敵いません。と呆れられるくらいであってほしいです。
負けは認めません。負けてないし、プレーできないだけなので。無論、頭悪い天才なので。



これから

正直これからどうすれば良いのか分からない。
ただ英語ができるからでぼんやりと選んだ空港職も、果たしてこんな熱量の奴がいて良いのか疑問に思う。
膝のことを会社に相談した際も、話したい趣旨はそこじゃないのにと内容が二転三転した。今はメールすら来ない。人生ってこんなもん。だよね?


膝を犠牲にしてまで就きたかったものでないから、新しいキャリアを築く時が来たのかもしれない。


しかし、ここでもまた私の足枷になっているのはサッカーである。
なんでサッカーにここまで苦しめられるのか不思議でならないが。


祖母のためにも、家族のためにも、ここまで私を形成してくれた愛する人のためだけにも、スパイクを履いてピッチに戻ることが使命と感じる。100%の状態に戻すことは無理だと承知している上で、またしのぎを削りたい。もう一度だけピッチで輝く姿を見せたい。


やはり理想と現実のギャップを埋めるのは難しい。
それが人生の問なのではとも思う。それはそれで一生旅路に出ている感じで面白いか。
あ、一生は存在しないか。



この12ヶ月以上の重い教訓を通して、
幸せのハードルを下げてくれたことには感謝したい。

幸せを感じるラインを下げてくれた。小さな喜びや幸せを噛み締められるようになった。私はBASIの、「本当に足りないものなんて実はそんなないんじゃない?僕はこれだけで十分なのにこれだけじゃ駄目ですか」というリリックが大好きです。


逆に”本当に必要なものは何か”
これを休職期間のテーマとして、
”会いたい人に会い、行きたいところに行き、伝えたいことを伝える。”


そんな旅を”一生”送りたい。





最後に

話すより聞くこと。自己表現に関して言えば、話すより書くこと。を好む私にとって、文字を綴るフィールドは存在を証明できる場所でもある。
「文才に富んだ人になれ」に因んだ名前に誇りを持って、これからも自由気ままに思いを言葉に乗せたい。

そして、いつか、行動や言動に説得力のある大人へとなれたら良い。


このnoteを読んで何か感じていただけたら幸いですし、それを伝えていただけたり、お気持ちのいいねだけでも押していただけたら、とても喜びます。
逆に何も感じなかったら、それはそれで今のあなたを誇りに思っていただきたいと願っております。


小説愛好家として、後から何か考えさせる形で終わらせたい私が、迷った挙句に追加した「最後に」の章でした。
付け足します。今でもサッカーは大好きです。



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手塚文登
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