【短編小説】芥-3.空の鳥
埃っぽい部屋があった。しかし、机も本棚も整頓された状態で、荒れた様子はなく、使われていた当初の部屋にそのまま薄い灰のヴェールを被せたようであった。一歩部屋に入ってみると、陽の光で埃がぱらぱらと舞って光った。つんと、知らない匂いが鼻の奥を刺した。辺りを軽く見回す。端から端まできちんと揃えられた本。少し日焼けした三枚の写真。まだ奥に続く扉。それから、一冊の日記が机の隅にあった。なんとなく手にとって、流すように数枚めくっていると、ふと目に留まる頁があったので読んでみることにした。
『私が、文学を人の目に触れさせなかった理由を、少し教えましょう。
母は、到底人に見せられるものではないからと、或いは、私が母を信用していないからだと想像し、父は、私には芸術にしか見せない一面があるからと想像していたらしいのですが、本質的なところではどちらも違いました。
私の文学は、私の一部というよりかは、私そのものでした。人に心があるならば、私の心は文学にありました。私の心を人は受け取りたがらないので、私は文学に託したのです。文学は、非常に寛容でしたので、私も安心して心をやることができました。人の本質を、性分を、心と呼び、それを享受するものが肉体であるならば、私はただの空っぽな殻でした。人間としての私は、ほとんどこの体にいなかったのです。
それを人に知られることを、私はひどく恐れていました。ひた隠しにしていた私の心をのぞかれたならば、或いは、人間として扱ってもらえなくなるかもしれない。』
どうやらこの部屋の住人は作家らしいが、人にあまり書いたものを見せないという、奇妙な性質を持ち合わせているようだ。しかし、このような日記も珍しい。現在はどうしてるのかと思い、最後のページを開けた。日付は一週間ほど前で、比較的新しい。
『文学にずっと触れてきました。文字が匂いや色を帯びて、繊細に繋がっていったりだとか、或いは、棘になって無作為に人を傷つけたりするのが、私には不思議で、おかしくて、もう虜になっていました。
すべてが、新鮮でした。羽が生えたような心地でした。空高く飛べたのです。
そこからは、海が見えて、山が見えて、多くの人が見えて、私は嬉しくなりました。もっと、空高く飛びました。
すると、大きな火事が見えて、黒いもやが見えて、とうとう、何も見えなくなりました。闇が広がるだけの、悲しい景色でした。
やがて、私は羽を切り落としました。
それでも、その大きな羽は、あぁ、私を包み込もうとするのです。つまらない言い方をするのであれば、私はそういう運命でした。逃れられないのでした。
それでも、私は自由になりたかったのです。』
そこまで読むと、その日記を元の位置に戻した。「じゆう」と、言葉を覚える幼子のように、一文字一文字丁寧に発音した。顎をさすって考えてみる。そこで一つの結論に至り、この部屋の匂いに、ひどく納得した。