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囚人のカルペディエム
その日を摘め(そのひをつめ、ラテン語: Carpe diem、カルペ・ディエム)は、紀元前1世紀の古代ローマの詩人ホラティウスの詩に登場する語句。「一日の花を摘め」、「一日を摘め」などとも訳される。
時は流れる。
あるべきものはあらざるものになり、
足るものは足らしめられるべきものになる。
凍える背中を抱いていた者がいなくなったとき、彼女の身体は夏のにおいを纏っていた。
彼女は駅前のフラワーショップに行けなくなった。思い出と恨み言が脳裏から剥がれなくなるからだ。
とくにカーネーションなどは、名前を聴くだけで心臓が止まりそうになる。
美しいだけの日々ではなかった。殴られたことはなかったが、その人のせいで地元に残らざるを得なくなったのは事実だった。
それでも今、カーネーションの赤色を見て泣きそうになるのは、恨みだけではないと心の奥底では思っているからだろう。
「頭では思い出せないような記憶があるんだろう」と思うことが、なんの意味があるのかは分からない。忌々しいとも思う。根っからの悪人ではない人を嫌いになるのは難しい。
いっそのこと記憶がなくなってしまったほうが、日常に溢れかえる過去の断片に悲しまないですむのに。
「今を生きろ」と皆が言う。ミュージシャンも詩人も教師も。過去に囚われてはならないと。未来のために今生きろと。
それしかないのは分かっている。どんなにそれを綺麗事だと反発しても、われわれが過去や未来に生きることはできない。
それでもどこか無理がある。囚人は過去の罪を忘却してはいけない。過去を背負って今を生きなければならない。けれど囚人のカルペディエムを、被害者は望むだろうか。
被害者も同じように、過去の被害から逃れることができない。一度裏切られたら、もう二度と信じられなくなるように。それでもカルペディエムを要求されるのだろうか。
カーネーションを見ても、なんとも思わないようにいつかなるのだろうか。過ぎ去った時間として、過去が事実に成り下がるのだろうか。
そうだといいが。
けれども彼女はこの一点だけが不満であった。今ごろ向こうでは心置きなく不倫しているのだろう、と。
2024年5月20日 薊詩乃