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クリシェ恐怖症を克服するために

クリシェ(フランス語: cliché、発音: [klɪ'ʃe])は、乱用の結果、意図された力・目新しさが失われた句(常套句、決まり文句)・表現・概念を指す。

さらにはシチュエーション・筋書きの技法・テーマ・ステレオタイプな性格描写において、ありふれた修辞技法の対象(要約すれば、記号論の「サイン」)にも適用される。

Wikipedia「クリシェ」

1. クリシェな展開を避けたい

ありきたりな表現をしたくない、ということはありきたりである、ということはありきたりである、ということはありきたりである、ということはありきたりである……

これは無限ループである。何かを書こうとしている者は、これに嵌る。

脚本家ブレイク・スナイダーは、著書『SAVE THE CATの法則-本当に売れる脚本術』の中で、物語の形式を10個にカテゴリ分けした(ただし批判もある)。

これは、ミステリ、恋愛物、といったジャンルではなく、ストーリーの本質、物語の構造に基づくカテゴリ分けである。

・家のなかのモンスター
・金の羊毛
・魔法のランプ
・難題に直面した平凡な奴
・人生の節目
・バディとの友情
・なぜやったのか?
・バカの勝利
・組織のなかで
・スーパーヒーロー

とまあ、名前だけ見てもよく分からないが、このような分類がなされている。これらは、「逃げられない状況で脅威に立ち向かう」「平凡な人間が、難題に直面する」といった、シナリオ上の主人公の状況や目的、手段に基づく10形式なのである。

物語の本質が、たった10個に収束するのであれば、すべての物語はある意味でクリシェである。

どんなストーリーラインも、主人公の葛藤も失敗も覚醒も、それは、他の誰かが必ずいつか思いついた物語であるに違いない。

自分と同じ顔の人は世界に3人はいるという言説を耳にしたことがある。それと同じことかもしれない。

——しまった、この引用はクリシェだった。


2. 引用クリシェとクリシェ警察

「パブロフの犬」「シュレディンガーの猫」「100匹目の猿現象」「働き蟻の法則」——これらの例は、(本来の意味を超えて)引用されている。否、引用され過ぎている。食傷気味であり、もう要らない。しかも、誤った理解で書かれている文のなんと多いことか。

しかし、引用に次ぐ引用をされ続けてきたせいで、ある程度本を読む人や、トリビア好きにとっては、共通認識コモンセンスとして作用する。

そのように作用するからこそ、使いやすい。使いやすいからこそ、また引用されてしまう。クリシェがまたクリシェになっていく。そして「クリシェ警察」に検挙されていく。

私たちがクリシェ警察の追っ手から逃れるためには、当然、クリシェでない表現を探す必要がある。

そしてそのためには、本を読まなければならない。それも、『銃・病原菌・鉄』とか『ファスト&スロー』のように有名で引用されがちな本ではない。

クリシェでない引用をしたいなら、多くの人が知らない話を知らなければならない。しかし、多くの人が知らない話を理解するためには、多くの人が知っている話を、自分自身の常識コモンセンスでなくてはならない。

クリシェがクリシェであるかを知っているためには、何がクリシェであるかを知っていなくてはならない。あるいは、ヘンペルのカラスよろしく、クリシェでないものを全て知っていなくてはならない。

有名で高名な本や創作物に触れずに生きてきたことを、一概に悪いとは言いたくない。知らないことそれ自体は悪ではないと思う。

悪いのは、無知の知を無視して、「私は〇〇を知っている」と豪語することであって、知愛の姿勢を見せないばかりか、それを否定することはあってはならない。

しかし、世のすべての有名作品を網羅することができるだろうか。名前を知っているくらいには有名な著作を読み切るのに、いったい何年かかるだろうか。

時間とやる気には限界がある。自分は何も知らない、という無知の知が湧き上がってくれば、「何も知らない自分は何もできない自分である」という強迫観念めいた不安症を発症してしまうだろう。


3. クリシェ恐怖症を克服するために

才能も実績も経歴も潤沢に蓄えている大ベテランの文筆家ならともかく、それを目指したい人や、非凡な凡人である私のような人間にとっては、クリシェを書いてしまうことより、クリシェすら書けないことのほうがよっぽど怖い。

中身のある文章を書くことは大変に良いことである。中身のない文章を書くことは、文章を書かないことよりかは価値があるのではないだろうか。ただし、「何を言ったかより誰が言ったか」というクリシェにもあるように、プロ中のプロが期待されていないクリシェを書くことは非難されても仕方がないのかもしれない。

だが私のように無知である人間は、クリシェの海に頭から突っ込んでいくべきだ。まず知ること自体が肝要だ。インプットがあって初めてアウトプットができる凡人であるのだから、よく議論される言説については少なからず知っていなくてはならない。

ただし、情報としてではなく、知識として吸収しなくてはならない。自分以外の誰かが恣意的に要約した動画やブログ、ネタバレを見て満足するのではなくて、ディテールまで知っておきたい。「その本を読んだことがある」ことと、「その本の内容を知っている」ことは、必ずしもイコールではない。情報としてだけの浅い理解をしているから、間違った引用をしてしまうのだ。

さて創作の話に翻ろう。仮に、ブレイク・スナイダーの10分類にすべてが還元されるとしても、だからといって、創作が頭打ちになっているわけではない。

AIだのLGBTQ+だの何だの、世界は次々と新しい問題に直面している。それを書く作家もまた、これまで地球上に存在していなかった存在である。だったら、なぜ、新しい創作が生まれないことがあるだろうか。

そもそも読者は、奇天烈な展開、見たこともない展開のみを求めているのではない。さまざまな傑作が10分類に還元されているのだから、将来誕生する傑作だって、それに還元されたとて構わないだろう。

われわれが最も恐れるべき対象は、クリシェを恐れて一歩も動けないままでいるわれわれ自身なのである。


4. おわりに

ただ、よく揶揄されるような中身のない「ビジネス書」「自己啓発書」を書きたいのであれば別であろう。

彼らはクリシェを書くことによって、「ああ、この話は知っているぞ!」という満足感と安心感、そして優越感を読者に提供しているからである。それがあるからこそ、多くの人に読まれ、古本業界に流通していくのである。

だから、ビジネス書や自己啓発書の引用クリシェに対して、「クリシェだー!」と警察ごっこを仕掛けるのはやめるべきだ。「決して美味いわけではないが、変わらないいつもの味」みたいなものなのだ。

いつかあなたがクリシェな文章に出会ったとき、その読者がそのクリシェを望んでいることを忘れてはいけない。そして、こういう言葉を頭に思い浮かべて、その味を噛み締めると良いのである。

こういうのでいいんだよ
こういうので

原作・久住昌之、作画・谷口ジロー
『孤独のグルメ』第12話



2023年5月12日 薊詩乃


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