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「空蝉」(さだまさし)人生の最終章に何を思う?

さだまさしの「空蝉」は、時間の流れとともに儚くなる人間の愛や期待、そして現実を描いた歌詞です。詩全体を通じて、過去の熱い恋や愛情が、時間とともに衰えていく一方で、それを支え合いながら生きてきた夫婦の姿が象徴的に描かれています。以下、詩の解釈を行い、さらに源氏物語の「空蝉」との関係性も探っていきます。

1. 儚い現世の道連れ

「名も知らぬ駅の待合室で 僕の前には年老いた夫婦 足元に力無く寝そべった 仔犬だけを現世(うつせみ)の道連れに」


この冒頭では、名も知らない駅の待合室に座っている老夫婦が描かれています。足元の力のない仔犬は、彼らの「現世の道連れ」として、夫婦が共に歩んできた人生の象徴として描かれています。現世の儚さ、そしてそれを象徴するかのような年老いた夫婦と仔犬は、まるで人生の終わりを待ちながら、互いに支え合っている姿を示しています。

2. 互いに頼るぬくもり

「小さな肩寄せ合って 古新聞からおむすび 灰の中の埋火おこすように 頼りない互いのぬくもり抱いて」


ここでは、夫婦が互いに寄り添いながら、過去の思い出や愛情を確かめ合っています。古新聞からおむすびを取り出すという行為が、彼らの生活の質素さや、過去の豊かな日々が遠い昔のものになってしまったことを示しています。埋火(うずみび)をおこすように、互いの頼りないぬくもりを大切にしている様子は、長い年月を共に歩んできた二人が、最後の力を振り絞りながらも愛を感じていることを表しています。

3. 昔の恋の記憶

「昔ずっと昔熱い恋があって 守り通したふたり」


この部分では、二人がかつて激しく燃え上がるような恋をしていたことが描かれています。その恋を「守り通した」とありますが、長い年月をかけて愛情を育み、共に苦難を乗り越え、今日まで支え合ってきたことが暗示されています。しかし、この恋もまた時間とともに形を変え、現在のように頼りないぬくもりに変わってしまったのです。

4. 汽車を待つ夫婦と訪れない未来

「二人はやがて来るはずの汽車を 息を凝らしじっと待ちつづけている 都会へ行った息子がもう 迎えに来るはずだから」


夫婦は、息子が迎えに来るはずの汽車をじっと待っています。この汽車は、彼らが期待している未来や希望の象徴です。しかし、彼らは息子を待ちながらも、時が過ぎる中でその期待が少しずつ儚くなっていきます。これは、親が子供に期待を抱くこと、そしてその期待が現実のものになるとは限らないという現実を描いています。

5. 訪れない現実と告げられた絶望

「けれど急行が駆け抜けたあと すまなそうに駅員がこう告げる もう汽車は来ません とりあえず今日は来ません 今日の予定は終わりました」


夫婦が待ち続けた汽車は、結局来ません。すまなそうに駅員が「もう汽車は来ません」と告げることで、彼らの希望が絶たれ、現実が冷たく突きつけられます。この瞬間は、人生において訪れるべきと信じていた未来が来ないことを示しており、現実の冷酷さと無常が強調されています。彼らの人生もまた、予定通りには進まなかったことを暗示しており、終わりが告げられています。

6. 源氏物語の「空蝉」との関連性

源氏物語における「空蝉(うつせみ)」は、光源氏の恋愛対象となる女性であり、彼女の名前は「現世の儚さ」や「肉体の脆さ」を象徴しています。彼女は源氏の誘惑を拒み、現実的で理性的な女性として描かれています。彼女が選んだのは一時的な愛情ではなく、家庭や義務を重んじる姿勢でした。

さだまさしの「空蝉」においても、現世の儚さと時間の不可逆性がテーマになっています。年老いた夫婦は、かつては熱い恋をし、それを守り通してきましたが、現実の中では老いと共にその愛もまた薄れていき、汽車が来ないという象徴的な場面で、未来への希望も失われてしまいます。源氏物語における「空蝉」の象徴的な意味、すなわち儚い肉体や移ろいやすい人生との関連性が、さだまさしの詩にも反映されています。どちらも、人生や愛の儚さ、そして現実に直面せざるを得ない人々の姿を描いています。

総括

「空蝉」は、老夫婦が人生の最終章に直面し、訪れない未来や息子への期待が失われていく様子を描いています。彼らが待つ汽車は、人生における未来への希望や期待の象徴ですが、それが訪れないことで、現実の無常と儚さが浮き彫りにされています。源氏物語の「空蝉」と同様に、この詩は、現世の儚さや移ろいゆく愛情、そして現実に対する深い洞察を描いているのです。

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