『すする宇宙』
――すする季節。
そう言ってしまって差支えないし、目くじら立てて反対する者もいないだろう。
や、目くじらといっても黒光りする大量の目クジラが直立歩行でずんずん歩いてくるわけではけしてない。そのことだけははっきりさせておこう。
――で、この際、ありていに、いや、いっそ包み隠さずに言ってしまえば……私は実は花粉症なのだ! フルスイングのカミングアウトでオーバーザレインボー?
(まず包み隠す意味がわからないカミングアウト。ボーイミーツボーイじゃなぜいかん? か分からんが、そういう話でもないか。まあ、とにかくあとで虹が出てきたりするかもしれないじゃないか)
や、私だけじゃない。ええい、ままよと、もう清水の舞台から飛び降りる気持ちで全部ぶちまけてしまえば『誰もが花粉症』なのだ。だってそうジャマイカ? 『一億総花粉症の時代』が幕をおっぴろげてしまったわけなのだから。到来ライドーン! 俺とお前のカブリオレということになるだろう当然。
事実――私は会社へと向かう途中の満員電車の中で、およそ10秒から15秒おきに「すん」あるいは「……すん」もしくは「すん……」と鼻をすすっていたし、周囲の誰もがそうやって平等にすすっていた。
それはいつもと変わらない、当たり前の風景だったから、そのときは、まさかそんなタイミングで“宇宙”が垣間見えるとは想像すらしていなかった。
第一、私はすっかり油断していた。
「次はぁ、明大前ぇ~明大前ぇ~……」
到着駅を知らせる鼻にかかった車内アナウンスがまずもっていけなかった。
「井の頭線をぉ、ご利用のお客様はぁ……“ほのりかえ”です……』
なにが「ほのりかえ」だこのやろう。
ほんのり何かが香ってきそうじゃないか。
もしくは、ほんのり何かが移り変わりそうじゃないか。もしも、うっすら微妙に変遷するそれに気づけなかったらどうする?
こう見えても私は「間違い探し」は得意な方だから、おそらくその徐々に、そこはかとなく移ろい、やがては跡形もなく消えていくであろうそれに気付くことが出来る一握りの人間だとは思う。わら一筋の自負ではあるが。
だがしかしそれに気づかず、真実に触れることも許されず一生を送ってしまう人間がいたとしたら(大半はそれを余儀なくされるだろうに)、一体どうするつもりなのか。責任者がいるなら出てきてほしいところジャマイカ(二度目)――そんなことを思っていた矢先、それは起きた。
――「すん……」
――「すん……」
こう表記して伝わらないなら――
「「すん……」」
――これで飲み込んでほしい。
満員電車の左隣り。二十代とおぼしき青年だった。
一ミリ秒も違わない、まったく同じタイミング、同じトーン、もしその場にオペレーターがいたなら「すんすんのシンクロ率が、400パーセントを超えています!」と叫ぶほどのシンクロ率で、同時に鼻をすすりあったその瞬間――『すする宇宙』ともいうべき果てしなき宇宙が唐突に眼前に広がった。
「――!?」
驚いたあと、襲ってきたのは猛烈な羞恥心で、私はまだ“すするものがそこに満ちてはいない”のに、なりふり構わず続けざまに「すん!」を放ち、へへーん! こっちは最初から二回続けてすするつもりだったんだもんねー! だからぜんっぜんあんたとは波形の違う「すん」属だし、音的にみたって「すん――すすんすん!」って響きにほのりかえしちゃったわけだから、もう完全にべっこ! 別物! 格式だって御家柄だってガチでマジで全然違う「すん」だったんだから、ヘタな色目使ってあたしの大事な「すんちゃん」に「一緒だね♪」なんてにじりよってきたらタダじゃおかないんだからね!――といった赤面エネルギーの暴走力を巧みに導いて自分自身にいい聞かせ、恥じ入る気持ちを強引にねじ伏せた。
暴流のごとき羞恥心がおさまったあとに見えてきた景色は、まるで豪雨のあとにかかった巨大な虹のように美しく、厳かでさえあった。それはもう宇宙がすんすんしてる景色、とほんのり言いかえてもいい(オーバーザレインボーやるならここだった)。
満員電車という狭くて広い海。そこでは老若男女がいたるところで、自分だけのすんすんを醸しだしていた。なんて色とりどりのすんすんだろう。
高いすん。
低いすん。
細く奥ゆかしいすん。
どぅるるる! と野太く唸るようなすん。
小気味いいパーカッションがきいたようなすん。
絶対それ飲み込んじゃだめなやつじゃん、ていう汚いすん。
あちらこちらで奏でられるすんすんの音色。
すんすんの宇宙。
これはもう、録音してサンプリングして「すんすんすする宇宙」という楽曲を作るべきなんジャマイカ(三度目の正直)?
私は各駅で入れかわり立ちかわりする人々が放つ、それぞれ宇宙に一つきりのすんすんにまみれながら、最後のパズルのピースをさりげなく添えるように 「……すん」と、自らのすんもつけ加え、言うに言えない満足感に浸りながら電車を降りた。
ほのりかえする駅はとうに乗り越していた。