できると言おう。裏打ちはある。
人間自信を持つには裏打ちが必要である。
資格があるとか、経験値があるとか、そういうものは他人に証明しやすいし、漠然とした「できる」のなかではやはり、数値や資格は目安になる。
たまに根拠のない自信をもてる事もあるが、それも大抵似たような経験か、直接そのものに結びつかなくても何か近いことをやったことがあるからではないかと思う。
では裏打った分野はちゃんと自信を持てているのか?
私はこれまで、多種の分野に割と同時に手を出すタイプだった。
なぜなら、根底には「視野を広く持って、範囲を狭べず、自分の居心地のいいところで活動する」という考えがあり、職種を決めてない頃から英語を勉強したり、常に外へと意識を向けてきた。それと、結構病的な注意散漫で他のことも気になったり、浅くてもいいからなんとなく全体像を見ないと理解できないような感覚を持ちがちだったりするというあまりいいとは言えない理由も。(そしてなかなか進まない、、)
今回Shelikes(webの職業スクール)でもそれをとても感じている。
ダンサーの仕事も、事務所所属とかはなく、練習も仕事もフリーでやってきて、その中でもちろん、スクールにも行ったし、ためになると思えば無料の出演も受けてきた。その中で一番大それたことと言えば、ミュージカルクラスの土曜コースに通っていたこと。私のダンスのメインはポールダンスなので、特にミュージカルに出たいということはなかったが、演技力があるショーダンサーになりたくて、1年通った。(1年で区切りのいいコース)
ミュージカル俳優の特訓は人格に関わる事で、とても良い影響を得て、勉強もできた。
多岐に渡って勉強しなきゃという意識は、根っこには確かに、自分への自信のなさがあるかもしれない。
だけどやっぱり、幅広くいろんなことを学んだ方が視野が広がり、時間が無駄にかかっているが、私にとってはこの遠回りで時間のかかる方法でしか知識が深まらないと思っている。
本題に戻ると、このように「少しかじった事」「継続的に細く長く続けている事」に、必ずしも自信がもてている訳ではないと気づいた事。
これらは、全てを「プロだ」と言えないにしても、少なくとも「できる事」には昇格させるべきなのだ。
「できます、でもそこまではできません。」といえばいいだけの話。
有名な話で言えば、外国の人は自己紹介ができれば、母国語じゃなくても
I can speak English. という事。流石に私ももう「英語話せます」とはいうけど(裏打ち経験的にも)、言葉なんて日本語すら時代や地域で言葉が違う上にどんどん文法すら移り変わっていくのに(英語圏も然り)、日常でボディーランゲージを使いながら意思疎通ができればもう「話せるよ」というべきなんじゃないか。完璧主義な頭の堅い考えの方を変えるべき。
時代も変わっていくし、完璧は誰にも、一生訪れないんだから。