地蛤御門の変
京都御所にある蛤御門。普段は閉じられていたのですが、大火の際に開いたことから、焼けたら開く蛤になぞらえて蛤御門と呼ばれるように。
小ぶりな地蛤を料理しながら、蛤御門の変で若い命を散らした尊王攘夷志士を妄想した記録。
地蛤 8個
黒胡椒 適量
塩麹 大匙1
三つ葉 半把
白ワイン 大匙1
オリーブ油 大匙1
元治元年(1864)上京してきた長州軍と御所を守っていた幕府軍が激突した禁門の変。激戦地が蛤御門だったことから蛤御門の変とも呼ばれる。
長州の一隊を率いていたのが久坂玄瑞。
天保十一年(1840)生まれで、この時は数えで二十五歳。
藩醫の家に生まれましたが、兄が二人。
次兄は早世。長男の玄機は二十年上。
家禄は二十五石と豊かではなかったかと思われるも、それなりに幸せな幼少期だったようですが、十四歳の時に母が病没。
更に激動の幕末、家を継いだ玄機は黑船来航に際して攘夷を主張していましたが急逝。玄瑞十五歳の時。
妙だな?
兄はまだ三十五歳。過労だったのではと言われるが、どうも死因がはっきりしない。
妄想するに藩内の攘夷を巡る論争の末に殺された?若しくは自害?
あくまでも妄想で根拠はありません。
武士の命は主君に預けている物、それを自分の裁量で自害したとなると武家社会では罪に問われる恐れ。そのために病死と届け出た?
玄瑞を跡取りとして申請しようとしていた父まで急死。いきなり天涯孤独。
それでも優秀であると認められていたようで九州へ遊学。熊本で出会った宮部鼎蔵に吉田松陰に師事することを勧められる。
?
同じ萩に住んでいた、しかも藩主お気に入りの松陰のことを玄瑞が知らなかったとは思えない。それまで意図的に接触するのを避けていた?
宮部に勧められたことから玄瑞は松陰に手紙。
内容は攘夷について。
無礼な異人を斬って追い返してしまえば、元寇の時みたいに戦になる恐れから多くの武士達も奮い立ち、攘夷は為せるという、かなり乱暴な内容。
松陰はこれをけちょんけちょんに貶す返事。
一旦、条約を結んだ以上は一方的に破棄するのは信義に悖る。思慮が浅い。
こうした手紙の遣り取りの後、玄瑞は松下村塾に。
松陰も食い付いてきた玄瑞に見所を感じたのか、受け入れる。
玄瑞が優れていたのは頭だけではなく、身長は六尺(180センチ)で容姿端麗、聲もよい。
そんな青年に縁談。
相手は師となった松陰の妹、文。
「あんなブスには興味がない」と玄瑞は断ったとか。
しかし仲人が
「君は容姿で人を判断するのか」
と言われて、それに反発するように結婚を決めた。
と伝えられますが、本当か?
松陰の義弟となることに抵抗があったのでは?
論破されたことから松陰の知識や思想を学ぼうと門下に入った筈なのですが、実は玄瑞は熱心に松下村塾に通っていた風でもなかったという話もある。
結婚から二か月後には江戸へ遊学。
吉田松陰という名前が現在でも伝説のように知れ渡っているのは、久坂玄瑞が行ったことが発端。
安政の大獄で松陰が刑死すると、玄瑞は悲劇の人として傳記を編纂、松陰の遺品を同志に配り、その偉大さを宣伝。
死罪となった松陰を改葬、その霊を祀り、ともはや神格化に近い。
義兄の慰霊ということよりも、攘夷のシンボルとして持ち上げたということか?
無念の死を遂げた兄、玄機が目指した攘夷を為すために、攘夷思想を長州のみならず天下に広めるために義兄、松陰をその旗にしようとした?
いくら義弟とはいえ、遺品を配るのはどうなのか?
また妻となった文もそんなには顧みられていないように思われる。
松陰の死後、主に都で玄瑞は尊王攘夷運動。ばかりではなく色町でも浮名。
そうした資金の出所は、実は松陰や文の実家である杉家。
ついには藝妓との間に男子までもうける。
当時は結婚の概念が今とは異なるとはいえ、後々にはその子が久坂家を継ぐことになる。
都で薩摩や土佐等々、諸藩の志士達と交流した玄瑞の口から義兄、吉田松陰が語られ、尊王攘夷の聖人のように全国に名前が知れ渡っていく。
現代の我々が抱く吉田松陰のイメージは、この頃に玄瑞から語られ、広まっていったものが大きい。
玄瑞の心中では義兄ではなく実兄の名前が廣がって欲しいと思っていた?
尊王攘夷派が主流になるかと思いきや、幕府と朝廷が手を結び、難局を乗り切るべきという公武合体派が薹頭。そうなると開国を断行した幕府主導でなし崩し的に攘夷は遠のく。そんな危機感。
八月十八日の政変と呼ばれる事件で、攘夷寄りになっていた公家共々、長州は都から締め出される。
更に池田屋騒動で新選組により過激な攘夷派は殺されたり捕縛。
玄瑞を松陰と結び付けた宮部鼎蔵も池田屋で死亡。
白ワインで蒸した程よい弾力の地蛤に塩麹の甘みと塩味がよく絡む。
少しくたっとなった三つ葉が爽やかさを添える。
黒胡椒が味を引き締める。
鉄分や亜鉛といった海のミネラルたっぷりな蛤、鉄分やビタミンB群など栄養の宝庫。
失地回復を目指した長州は2000人程の兵を都に送る。木島又兵衛らと共に玄瑞も一隊を率いた。
朝廷から停戦命令が出されたが、木島ら強硬派に押し切られる形で、蛤御門で万単位の幕府軍と衝突。
これが蛤御門の変。
畿内で戦闘が起こったのは大坂夏の陣以来。実に249年振り。
玄瑞率いる隊は堺町御門周辺で戦闘。この時に左足を負傷。
近くの鷹司輔熈邸に駆け込み、主上への嘆願を願い出るが受け入れられず自害。
ほととぎす、血に泣く聲は有明の月より他に知る人ぞなき。
が辞世の句。
吉田松陰は敵を知るためにとアメリカへの密航を企てた人物。又、玄瑞に短慮は慎むべしと手紙に書いたことからも、穢れた異人は皆、斬り殺せという頑迷な攘夷主義者ではなかったと思われる。
外国人を一切、排除せよという完全な攘夷など不可能ということは松陰も玄瑞もわかっていたことでしょう。
しかし、極端なことを言わないと世の中は動かない。そのために玄瑞は師であり、義兄の松陰を尊王攘夷のシンボルとして持ち上げ、引っ込みがつかなくなったのかもしれない。
歴史好きな人なら名前は知っているが、何となくわかりにくい人物が久坂玄瑞。その根には兄が抱いていた攘夷の志があった?ということを妄想しながら、地蛤御門の変をご馳走様でした。