鮭フラ伊能忠敬
日本で最初に精密な日本地図を作成したのは伊能忠敬。そのことは多くの人が知っていることと思います。江戸時代、精巧な測量器具やGPSとかコンピューターもない時代に基本的に人力でほぼ日本全土を測量。その偉業が鮭のせいで一時、頓挫しそうになったことを思い出しながら鮭を料理した記録。
鮭 5切れ
粒状大豆肉 適量
葱の微塵切り 大匙3
オイスターソース 大匙2
酒 大匙1
塩 少々
卵 1個
米粉 適量
延享二年(1745)上総国(千葉県)に生まれた三治郎が後の伊能忠敬。
生家の小関家は名主でしたが、父親は婿養子で三治郎は末っ子のために家督は継げず、養家と父の実家を行ったり来たり、親戚の間をたらい回しになったりと落ち着かない幼少時代。
それでも優秀だったことから、香取郡の佐原にある酒造家の伊能家に婿入り。これにて伊能忠敬となる。但し、当時は武士ではない者は苗字の公称を禁じられていました。
当時の佐原は利根川の水運で栄えていた天領。
酒造だけではなく水運や薪炭商としても商売に精を出し、身代を大きくしていく。
名主や村方後見等を歴任、村の顔役と言える存在になっていく。
天明三年(1783)浅間山が噴火したことにより、天明の飢饉が発生。
忠敬は関西方面から大量に米を買い付ける。米価の値上がりを見越しての行動。しかし地元の佐原村が洪水で被害を受けると、身銭を切って困窮者の救済。米も安く売りさばく。これにより佐原村では一人の餓死者も出ず。
こうした功績から名字帯刀を許される。
商売熱心だった忠敬ですが、興味があったことがありました。暦学。
隠居後にそれを本格的に学ぶという夢のために蓄財と商売に熱心だったとも思われる。それまでに現代の貨幣価値に換算して30億円とも35億円とも言われる資産を築く。
寛政六年(1794)に50歳で隠居。
江戸に出て深川に居住。
天文学者、高橋至時に弟子入り。この時、至時は31歳。親子程も年下。
年下であろうとも知識ある人を師として仰ぎ、暦や天体観測の勉強に励む。
「宝暦暦」に代わる「寛政暦」を完成させた高橋至時はこの暦は完全ではないと考えていました。
より完全な暦にするためには地球の大きさや全国の緯度や経度を知る必要があると考えるように。当然、弟子の忠敬もそれを考える。
忠敬は深川の自宅から浅草までの距離を実際に測量。それを元に緯度を求めてはどうかと提案。
「それでは距離が近すぎる。せめて江戸から蝦夷(北海道)までの距離を出せれば、緯度も計算出来るかもしれない」
江戸と蝦夷。語呂合わせみたいな答えでしたが、これを実際にやってみようと幕府に提案。これが地図作成に至る17年の長い旅路の始まり。
当時、ロシア船が蝦夷地周辺に出没。国防上、蝦夷地の重要性が意識し始められた頃。測量がうまくいけば儲けもの位の気持ち?から幕府も許可を出し、忠敬は深川の富岡八幡宮に参拝してから蝦夷地へ向けて測量の旅に出発。
奥州街道を測量しながら北上。
蝦夷地に上陸。ここで探検家で樺太が島であることを確かめた間宮林蔵が弟子になったと言われているのですが、忠敬の日記には林蔵についての記述はなし。これは思うに間宮林蔵が幕府の隠密仕事をしていた故に、あまり詳しく行動の証拠を残してくれるなと頼んだのではないか。
隠密仕事と言えば、忠敬の測量事業にも隠密という裏仕事が込みだったのではないか?その証拠と言えそうなことに忠敬はロシア人、ゴローニンの尋問に関わっています。
測量という名目で彼方此方に出向いて、現地の事情を視察するのも役目。
思うに忠敬自身は地球の大きさを知りたいという、師と共有している知的好奇心を満たすために、隠密の任務もあることを承知で請け負ったのではないか。
ただ、この時の蝦夷地測量は鮭漁の時期と重なり、舟も人もそちらに出払っていて断念せざるを得なくなる。(これが冒頭に書いたこと)
それでも三年の月日を費やして東日本の測量を終えて、提出した海岸線の地図の精巧さに驚いた幕府は西日本の測量も忠敬に命じる。
ここから遥々と四国、九州、果ては屋久島まで歩き回る。
高齢の忠敬だけではなく門人や助手が同行していましたが、旅の恥はかき捨てという言葉は昔からあったようで、酒を飲んで騒ぎを起こす者もいたようで、そうした者には厳しく接し、時には破門。それは自分の息子にも及んだ。
質素倹約を旨とし、金銭も貯めることが第一と常々、言っていた。
決して頑健ではなく、気管支炎に悩まされて、その薬として卵をよく食べていましたが、卵も江戸より佐原で買った方が安いので、そちらから送ってもらっていたという話。
オイスターソースが濃い味を鮭に加えてくれます。葱のアリシンが食欲を増す。大豆肉の衣の食感もよい。大豆と鮭でダブルでタンパク質を頂けます。
ソースも醤油も不要。このままで十分にご飯が進む。
55歳から始まった測量も72歳で終了。17年の歳月を費やしたことになる。それも人生50年と言われた時代に、隠居後にこれだけの大事業を成し遂げたのは正に快挙。
地図の編集作業中に忠敬は74歳で死去。完成品を見ることはありませんでした。
「死後は先生の側で眠りたい」という遺言に従い、高橋至時の墓の側に葬られる。しかしその死は地図の完成まで秘匿。
死の三年後に完成された「大日本沿海輿地全図」は大図69枚、中図3枚、小図1枚。それらは江戸城の大広間に広げられましたが、どの位の大きさかというと、大図一枚が畳一枚分ということ。
完全に測量が終わっていなかった蝦夷地については弟子の間宮林蔵が完成させました。
後に地図の正確さに驚いたスパイが国外に持ち出そうとしたことがありました。いわゆるシーボルト事件。
海洋国家である日本は海岸線の形が外国に知られると、攻め口を知られるに等しい。この時、シーボルトに地図を送ったのは高橋至時の息子、景保。
密告によりシーボルトを国外追放にまで追いやったのは間宮林蔵。
忠敬の地図は本人の死後にも、所縁ある人々に関わっていたということになる。
隠居後、第二の人生に輝ける功績を遺した伊能忠敬。彼が歩いた距離は約4万キロ。奇しくも地球一周分とほぼ同じ。
地球が本当に球体ならばという仮定の上ですが。最近は地球は平面だという話(フラットアース)もあるので。まあ、この話は長くなるので、いずれまた。
ということで、伊能忠敬を妄想しながら鮭フラ伊能忠敬をご馳走様でした。
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