夏・お傳
そろそろ夏野菜が出始めた。
茄子、トマト、ズッキーニ等々。
焼いた夏野菜を濃い味の出し汁に漬けたら、何となく冷やしおでんっぽい。ということで、どかた家では夏野菜の焼き浸しを夏おでんと呼ぶことにした。夏おでんを作りながら、生きている間も死んでからも悲劇に見舞われた女性を妄想した記録。
茄子 2本
ミニトマト 10個
薩摩揚 3個
ズッキーニ 1本
出汁つゆ 50㎖ (二倍濃縮)
水 50㎖
醤油 10㎖
味醂 10㎖
鰹節 好きなだけ
嘉永元年(1848)上野国(群馬県)に誕生。
戸籍名はでん。実は出生から波乱。
母は沼田藩家老の家に奉公していましたが、家老と関係して妊娠。
身分が違うことから正室にも側女にもなれず、妊娠している状態で結婚。
産まれたのがでん。こうした経緯から、生まれた後に傳は養子に出される。
後に美人として名を馳せたお傳ですから、母親も美しい人だったのかもしれません。
やがて年頃になったお傳は同じ村の波之助と結婚。実家も婚家も高橋という苗字。美男美女の夫婦として注目されたが、ここで最初の悲劇。
夫の波之助が癩病に感染。
現代ではハンセン病と呼ばれることが多い病氣ですが、進行すると指が変形したり、顔が崩れることがある。
有効な治療法がない時代では、前世の悪業によって掛かる病氣であり、業病と言われた。
治療が出来ないとなると、せめて他人に移さないようにと隔離。
それを嫌がったのか、夫婦は村を出て横濱へ。
離婚せずに夫に付いて行ったのは戻るべき実家もなかったか、夫に尽くすことを選んだからか。
都会に出ればいい醫者がいると思ったのでしょうが、そうはいかず、働けない波之助を養うために、お傳は娼婦となる。
生活と病床の波之助を支えるために働いたお傳でしたが、有効な治療法もないのでついに夫は死亡。
お傳は村に帰らず、都会に留まり、軆を売ったり妾をして過ごしていた中、元士族の小川市太郎と同棲を始める。
しかし、この男もお傳を幸福にはしてくれず。
無頼の博打好きな市太郎、お傳が稼いだ金も食い潰されるばかりで借金まで嵩む。
羽振りがよかった古物商、後藤吉蔵に相談。
この男、事業をしようとした市太郎の取引相手だったとも、お傳の姉を妾にしていたとも。
好色な男だったのか、金を工面する代わりに一晩、付き合うように要求。
金のために身を任せるお傳。
ところが朝になると、吉蔵はそんなことは知らんと面倒そうに答えて二度寝。
騙されたことに激昂したのか或いは切羽詰まっていたのか、お傳は剃刀で吉蔵の喉を掻き切る。
「この男は姉の仇なので殺した」と書置きを遺して、お傳は泊まった旅館から出る。
吉蔵の財布から抜き取った11円で借金を僅かばかり返済。その後、10日程の逃亡後に逮捕。
裁判が結審するまで三年程。明治十二年(1879)
強盗殺人の罪に問われたお傳に下された判決は死刑。情状酌量の余地はあったと思うのですが、随分と厳しい。
当時の死刑は斬首で判決後、即日執行。
斬首を担当したのは山田浅右衛門。江戸時代を通じて罪人の首切りを担当していた一族の末裔。山田浅右衛門については↓
あ、まだ書いてなかった!
近日公開?
しました。
同じ日に斬首になる男がガクガクブルブルだったが、お傳は落ち着き払って、
「私を御覧よ、女じゃないか」
と言って覚悟を促したという。
ところがいざ、自分が土壇場に引き据えられると恋人、市太郎の名を叫んで激しく抵抗。
背後で刀を振り被った浅右衛門、
「すぐに逢わせてやる」
途端にお傳の動きが止まる。そこを見逃さずに刀を振り下ろす。
ところが、刀が当たる寸前に頭を動かしたために狙いが外れて、後頭部に命中。
猶も抵抗するお傳、三撃目にしてようやくお傳の首は胴から離れた。
「母上を斬ってしまった」
呆然として浅右衛門は呟いた。
最後まで愛する者のために生き延びたいという生への執着に母性のようなものを感じたのか、或いは自分の母に似ていたのか?
この浅右衛門は200人の斬首を担当した手練れ。それが二度も仕損じた。
高橋お傳の生涯を知った時、昔読んだ小説で映画化もされた『嫌われ松子の一生』を思い出した。
愛した男に一途だった故に転落人生、ついには犯罪者になった生涯。
野菜から水分が出るので濃い目の味付けでOK牧場。それでも濃いと感じたら氷を浮かべるのもいい。溶けていくにつれて程よい具合。
トマトのリコピン、茄子のナスニン等の抗酸化物質豊富。ズッキーニにはカリウムやビタミンC。薩摩揚からタンパク質と栄養も十分。
愛した男のために犯罪に手を染めたお傳。その悲劇は死後に加速。
美人が強盗殺人で逮捕ということから世間の耳目を集めていましたが、有り得ない程の尾鰭や背鰭が付けられて、読み物や歌舞伎、芝居のネタにされた。
希代の毒婦などと呼ばれて、波之助を毒殺後、愛人と共に強盗を繰り返して最後は愛人を殺して金を奪ったなんて話に。ここまでくると脚色ではなく創作。昔も今も下世話な話を好む大衆が一定数いるから、こんなことが繰り返される。
死人に口なしとばかりに、実名でこんな話を書いて上演までしていた。現代なら名誉棄損で告訴されるレベル。
お傳刑死の翌年、死刑は斬首から絞首に変わった故にお傳は最後に斬首された女と言われるが、これも脚色。実際はお傳以後も斬首された女囚は存在。
斬首された遺骸は取り捨て。刀の試し斬りに使われたり解剖。
醫学のためなら兎も角、あんた達、興味本位だろと思われるひどい解剖がお傳に為された。遺體の一部はホルマリン漬けの標本。
標本についてはあまりにも悪趣味で、私の美意識に反するので詳細は書けません。興味があれば検索して下さい。
明治十四年(1881)谷中霊園にお傳の墓が建立。
歌舞伎役者や噺家、つまりお傳を芝居にして儲けた人達が、これまたお傳をネタにした小説『高橋阿傳夜刃譚』を書いた仮名垣魯文の世話で建てた物。
罪滅ぼしか御礼か?何だか欺瞞。
山田浅右衛門によって落とされたお傳の首ですが、浅草の漢方醫が所有。
一人の僧侶が髑髏となったお傳の首を見せて欲しいと頼んできた。
お傳の頭蓋骨を抱きしめて、僧侶は落涙。
「お傳、すまなかった。俺が馬鹿なために」
出家した市太郎でした。
愛した男が泣いて詫びてくれたことで、お傳の魂は少しは救われただろうか。そんなことを妄想しながら、夏・お傳をご馳走様でした。