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沢庵?

香の物、つまり漬物の代表と言えば、やはり沢庵ですが、元々はお坊さんの名前。沢庵宗彭という禅僧。沢庵っぽい漬物を作りながら、沢庵という名僧を妄想した記録。


材料

大根     好きなだけ
くちなしの実 1個
塩      大根の重量の5%
フルーツ酢  大根の重量の3%
水      大根の重量の2%
昆布     7センチ

天正元年(1573)但馬国(兵庫県)に秋庭綱典の次男として誕生。秋庭家は但馬国主、山名家の重臣。
山名家は秀吉に攻められて滅亡。十歳にして出家して春翁と名乗ることに。父が牢人となったので口減らし?
文禄三年(1594)に師が大徳寺の住持となったのに伴い、上洛。
これ以降は宗彭と名乗る。
慶長四年(1599)石田三成が母の供養のために佐和山城内に寺院建立。その住職に師の薫甫が任じられると、宗彭もそれに同行。
その翌年、関ケ原の戦い。この結果、佐和山城は落城。師と共に脱出。
捕らえられた三成が処刑されると、薫甫と宗彭の師弟は遺体を引き取り、弔う。何だか負ける方にばかり与している気がする。
師の死後、堺の南宗寺に入り、ここで沢庵の法号を得る。これにて沢庵宗彭となる。
慶長十二年(1607)に大徳寺に入り、二年後には第百五十四世住持になったものの、名利や肩書を煩わしいと思ったのか、三日でこれを辞して、故郷の但馬国出石に帰ってしまう。
出石の領主が再興した寺に一庵を結んで、そこに隠棲。


適当な長さに切った大根と材料をすべてビニール袋に入れる。やることはこれだけ。後は冷蔵庫に突っ込んでひたすら寝かせる。


そして、またもや負ける側に与する事態が発生。
仏教の宗派を問わず、紫色の法衣というのは最高位を示す衣であり、それを着用する許可は朝廷が出す決まりでした。その許可を与える見返りに御礼を貰うという、朝廷にとっては重要な収入源。
ところが、江戸幕府は禁中並びに公家諸法度を発令して、これを禁じました。以降は最高位を示す紫衣を着用する許可を出す前に、朝廷は幕府にお伺いを立てろと通達。
時の帝、後水尾天皇はこれに反発。相変わらず独断で紫衣を着る権利を与え続ける。将軍、徳川家光はこれを無効と裁定。
沢庵を始めとする大徳寺や妙心寺の僧侶達も幕府に抗弁書提出。
寛永六年(1629)沢庵を始めとする抗議した僧侶達に流罪を通達。幕府の処置に起こった後水尾天皇は譲位。この一連の事件が紫衣事件。
幕府の命令が朝廷の勅許よりも優先される前例となる。ここでも沢庵は敗者側。そして出羽国へと配流。
配流先の領主、土岐頼行は沢庵の権力に屈しない生き方と清廉潔白さに感じ入り、草庵を寄進、藩政への助言なども求めたといいます。


一週間後。

フィクションの世界では、宮本武蔵との交流がよく言われる沢庵ですが、実はこれは吉川英治の創作。

沢庵と武蔵に交流があったという史料は存在せず。ただ、吉川英治の人物造形は優れていて、沢庵って本当にこういう人物だったのではないかと思わせる。
実際に沢庵と交流があった剣豪は柳生但馬守宗矩。将軍家指南役となった、武蔵のライバル的に見做されることが多い人物。
剣禅一如という言葉を沢庵は宗矩に贈る。
剣も禅も究極に目指す所は夢想無念の境地ということを示した言葉。

大御所となっていた二代将軍、秀忠が亡くなると、大赦が発令されて沢庵も都に戻ることを許される。これは柳生宗矩の働きかけがあったから。

沢庵?

本来の沢庵は干して水分を抜いた大根を糠漬けにする物ですが、手間と時間がかかる。割とお手軽に沢庵めいた物を作ってみました。
クチナシの実で黄色くなり、沢庵らしい色。
干してない大根なので、本来の沢庵のような歯応えはないけれど、甘味、塩味、酸味と三拍子そろっている。
四日目位から味と色が沁み込んで食べられますが、一週間漬けてみました。
大根はビタミンC豊富で、皮つきなのでタカジアスターゼもしっかりと頂けます。

許された後、沢庵は家光と謁見。

家光は沢庵の人柄に惹かれたようで、以後は深く帰依。
品川の東海寺の住持となった沢庵は其処に居住。
その頃の逸話として、沢庵が家光に馳走した話。
東海寺にやって来た家光、腹が減ったので何かないかと所望。
散々、待たされた後に出て来たのが大根の漬物二切れ。
空腹にまずい物なしということで、それを食べた後、家光は問う。
「これは何という漬物か」
「たくわえ漬けと申します」
「いっそのこと、沢庵漬けにしてはどうか」
ということで、沢庵という漬物が誕生。


糠漬けとの比較。

干していない生大根を糠漬けにしているので、それと並べてみた。
味は糠漬けの方が酸味が強い感じ。
沢庵?の方がよりマイルドで食べやすい。

一度は自分を流罪にした権力者とはいえ、それにたいするわだかまりもなく、帰依する者、道を求める者には分け隔てなく接した沢庵。
家光との間には他にも、何となくほのぼのするような会話あり。
「東(遠)海寺というけれど、海に近いぞ」
「将(小)軍と言いながら大君というのと同じでございます」

権力や権威というものに拘りもなく、伝統にも拘らないという姿勢は徹底していて、自らの禅の道統を弟子に譲るということも拒否。
荘保二年(1646)辞世の言葉を求められた沢庵は「夢」と書いて、筆を投げて臨終。
墓は不要と言っていたのですが、その遺言は守られず、故郷の出石と東海寺に墓碑が建立されました。
権力におもねらず、へつらわずを貫いた反骨の禅僧、沢庵を妄想しながら沢庵?をご馳走様でした。

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