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カレーひも河上彦斎

群馬県名物である幅広いうどんが「ひもかわ」
ひもかわをカレー味に料理しながら、るろうに剣心のモデルになったと言われる人物の虚実を妄想した記録。


材料

ひもかわ麺  2玉
人参     1/3
オクラ    3本
インゲン   4本
ジャガイモ  1個
南瓜     1/4
玉葱     1/4
竹輪     2本
出汁つゆ   200㎖
水      200㎖
ターメリック 小匙1
クミン粉   小匙1
ガラムマサラ 小匙1
チリパウダー 小匙半分
醤油     小匙1

天保五年(1834)肥後國熊本城下に小森貞助の次男として誕生した彦次郎が後の河上彦斎(かわかみげんさい)因みに子孫に伝わる話では「けんさい」と呼ばれていたとか。
河上源兵衛の養子となり、彦斎を名乗った。
武士としての務めの始まりは茶坊主。これは殿様の遊興や習い事の相手が役割。相応の教養と礼儀作法が求められる。
実際に彦斎は漢詩に通じ、兵学を宮部鼎蔵に、國学を林桜園に学び、礼儀正しく妻子には優しい人物だったという。
しかし、彦斎の通り名は『人斬り彦斎』
色白で小柄、人斬りという綽名から漫画、るろうに剣心のモデルと言われる。


食べやすい大きさに切った具材を出汁つゆと水で煮る。

幕末、多くの下級武士がそうであったように彦斎も尊王攘夷に傾倒。
師である宮部鼎蔵と共に熊本藩の御親兵に選ばれて御所警備。
清河八郎や長州の攘夷派らと親しくなり、攘夷派の公卿、三条実美の警固も務めた。
こうした頃に自身が信じる尊王攘夷にためにならないと思った人物を次々に殺したと言われる。
仲間内で話している時、ふと彦斎が消えた。
「あいつはどうした?」
厠にでも言ったのかと思っていると、戻って来た彦斎は話題に上っていた、仲間内で非難されていた人物の首を提げていた。

後年、勝海舟が彦斎との会話を回想。
「おまえさん、やたらに人を斬るもんじゃねえよ」
「先生も畑の茄子や唐辛子がいい案配になったら、千切ってお上がりになるでしょう。あんな奴らはそれと同じです。いくら千切っても構わない」


沸騰する前に醤油以外の調味料を投入。

彦斎が使っていた釼は我流とも片山伯耆流という居合の流派だったとも言われるが、子孫の推測では当時、熊本で広く行われていた雲弘流を学んだ可能性もあるとか。
文久三年(1863)の八月十八日の政変で尊王攘夷派の公卿や長州藩士が都から追放されると、彦斎もそれに伴い長州へ。
翌年の元治元年(1864)巻き返しを図った尊王攘夷派は風の強い火に京都市中に放火、天皇又は中川宮を長州へ拉致するという計画。それを話し合っている所に新選組が斬り込んだのが有名な池田屋事件。
この時、彦斎の師、宮部鼎蔵も死亡。
その仇討として上洛した彦斎が狙いを定めたのは何故か新選組ではなく、佐久間象山。


煮えてきたら、凍ったままのひもかわを投入。蓋をして更に煮る。

西洋式の鞍を乗せた馬で都を闊歩していた象山は著書や書状に日本を新アメリカ國と書いたことがあったというが、日本を売り飛ばす氣かと激昂したのかもしれない。
仲間二人と待ち伏せして殺害。
彦斎が得意としたのは低い位置からの逆袈裟斬り。この時もその技を遣ったか。
象山を斬った後、彦斎は髪が逆立つような感覚に襲われ、手が震えたという。
これ以来、やたらと人を斬ることを控えるようになった。
その後も長州人らと共に行動。一時は奇兵隊の総督にも推されたが、出身である熊本を尊王攘夷に染め上げるべく歸國。


ひもかわが融けた状態。

同じ外様の大藩でも薩摩や長州と違って熊本の細川家は関ヶ原の勝ち組ということで幕府側。彦斎は捕らえられて牢獄へ。
大政奉還や戊辰戦争という維新のハイライトと言うべき時期を無為に獄中で過ごす。
明治と改元される年に出獄。藩主の弟に従って上京。
佐久間象山の息子が仇である河上彦斎を探しているという話から、主君の勧めで高田源兵衛に改名。(本稿では便宜上、彦斎で通します)
中山道を回って尊王思想について説いたが象山の出身地、松代にも立ち寄った。
松代の人々は地元の英雄、佐久間象山について語り、当然、息子が彦斎を探しているという話を正体が彦斎とも知らずに高田源兵衛に。
「そのような立派な人物の息子ならば、本懐を遂げさせてやりたいものだ」
と答えたという。
とぼけた?或いは象山の息子は父に似ず、ろくでなしだったらしいので、そんな者に斬られる筈もないという余裕か?


すべてがカレー色に染まる。

人斬りと呼ばれたといいますが、実は彦斎が斬ったとはっきりしているのは佐久間象山のみ。後は何処で誰を斬ったのか不明。
常識のように言われていることをすべて疑えが信条の私は妄想。
本当に人斬りだったのか?
殊更に恐ろしいイメージを被され、貶められているかもしれない。
先に引用した勝海舟の話も、割り引いて考える必要がある。
何しろ勝は大言壮語する法螺吹き。しかも幕府に仕える身でありながら、長州や薩摩にも通じていた、彦斎が忌避するタイプの変節漢。
彦斎は強硬な攘夷派で、外国にすり寄る者が許せず、三条実美や木戸孝允も詰られた。木戸は鼻を捩じ上げられたというが、本当に凶暴な人斬りなら、鼻を捩じるどころか斬り捨てたのではないか。
天下を握ったかっての攘夷派は、迎合しない彦斎を邪魔者として葬り、貶めたような氣がする。


カレーひも河上彦斎

和風出汁ベースのカレー味が染み込んだひもかわや野菜が美味い。
野菜たっぷり食物繊維もたっぷり。南瓜や人参からβカロチンも頂ける。
ターメリックには肝機能改善、アルツハイマー予防効果が期待出来る。
出汁カレーの味は昔、食べた『マルちゃん黒い豚カレーうどん』のスープを彷彿させる。

何が何でも外国の物は排除しろという原理主義的な攘夷派、ではなかった証拠に彦斎は有終館という学校設立。ここで教えたのは西洋式の兵学。
更に外国と交易して富を得ることも考えていた。
敵を知り、それと同様な力を得た上で対等に付き合う、場合によっては打ち払う。いわば大攘夷が彦斎の思想。
これは佐久間象山が考えていたこと。
同じ志ある人物を斬ってしまった。その後悔が髪を逆立たせて、手を震えさせたのではないか。つまり暗殺直後ではなく、象山の思想を知ってから後悔に襲われたのかもしれない。

明治二年(1869)身に覚えのない政府転覆事件や参議暗殺の嫌疑で彦斎は逮捕される。
転向するように説得されるが、これまで命を落とした同志達のためにも変節は出来ないと拒否。
明治四年(1872)に斬首され、三十八年の生涯を終えた。

尊王攘夷を標榜していた三条や木戸は外国勢力に擦り寄り、魂と日本をDSに売り渡した。彦斎の目はそれを看破していた。
「自分が外遊に出ている間に彦斎を始末しろ」と木戸は命じて岩倉使節団に加わって出国。
三条実美も
「あいつがいる間は枕を高くして眠れない」と恐れていた。
命を奪っただけではなく、その思想も葬るために殊更に『人斬り』という恐ろし気な通り名を冠して貶めた。そんな妄想をしながら、カレーひも河上彦斎をご馳走様でした。

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