![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/173816156/rectangle_large_type_2_a73d5cace0e38a0af9962871398feda5.jpeg?width=1200)
龍馬暗さつま芋サラダ
待っていた人も忘れていた人もお待っとうさん。坂本龍馬について思うことの続き。↓
慶應三年(1867)十一月十五日、坂本龍馬三十三歳の誕生日。
グレゴリオ暦だと12月10日の午後六時頃。既に日が暮れている。
京都での潜伏先、醤油商の近江屋二階に龍馬。
風邪気味でかなり着ぶくれていたという。
陸援隊長である中岡慎太郎が同室。
二階に上がって來た十津川郷士を名乗る者達による襲撃。
龍馬は頭を割られて即死。中岡は後頭部や尻を斬られて重傷。
これが坂本龍馬暗殺事件の概要。
この事件について妄想しながら、薩摩芋でポテトサラダを作った記録。
![](https://assets.st-note.com/img/1739098393-dvP6LEmnVfD7lgxCjHR40Yzy.jpg?width=1200)
薩摩芋 2本
人参 1/3
玉葱 1/4
ツナ缶 1個
和辛子 小匙半分
黑摺り胡麻 お好みで
卵 1個
酢 適当
塩 適当
油 適当
事件の直後、新選組の犯行という噂が流れた。
根拠は現場に蝋色の鞘が落ちていたが、これは新選組の原田左之助の物だと、元新選組の伊東甲子太郎が証言。
土佐藩は新選組の犯行と強く信じていて、後に新選組隊士だった大石鍬次郎を拷問にかけている。
近藤勇の斬首を強く主張したのも、この恨みを晴らすためという面も。
![](https://assets.st-note.com/img/1739098878-9T7mKZfgJ8aDvc2PbrN3UjLl.jpg?width=1200)
現代では新選組犯行説はほぼ否定され、京都見廻組が実行犯だったというのが定説。
見廻組とは旗本や御家人で構成された特別警察。組頭は佐々木只三郎。
前述した大石鍬次郎がそう証言しているだけではなく、見廻組の一員だった今井信郎が自分達が龍馬を斬ったと証言。
新選組も見廻組も自分達の判断で襲撃したのか或いはあくまでも彼等は実行部隊であり、指令を出した者がいたのではないか。そんな風に昔から様々な名前が取り沙汰される。
黑幕ではないかと言われるのは松平容保、薩摩、土佐、紀州等々。
![](https://assets.st-note.com/img/1739102191-DFNTpi7wI1cVfq94BoSs6urz.jpg?width=1200)
現代の人々から見れば龍馬は英雄でも、当時は寺田屋で伏見奉行所の捕り方を二名、拳銃で射殺した指名手配犯。
更に幕府側から見れば、将軍に政権を返上させる大政奉還を勧めさせた龍馬は許し難い。
実際には大政奉還は徳川家を温存させるためでもあったが、頭が固い人には理解出來ない。
薩摩は西郷隆盛を始め武力倒幕派が大勢を占める。土佐にもその考えを持つ者。彼等にとっては武力を用いずに政権交代というのは都合が悪い。
自分達が幕府を倒して、次の天下を取ることが出來なくなる。
そのために天皇の替え玉まで用意したというのに、龍馬は余計なことをしてくれた。放っておけば更に余計なことをやりかねない。
![](https://assets.st-note.com/img/1739103056-o0e9VJqOCldTcPpt8xGyHYsm.jpg?width=1200)
大政奉還は龍馬の独創ではない。元々は勝海舟や横井小楠が唱えていたこと。龍馬は二人ともよく知っているので、その考えを拝借。
人のアイディアをちゃっかり頂いたというよりも、使えるものは何でも使う。人の褌で相撲を取る天才と龍馬を評する人がいますが、これも一例。
龍馬は繋がりを持った土佐の参政、後藤象二郎を通じて大政奉還案を上申。後藤はこれを老公つまり藩主の父、山内容堂に、そして容堂から徳川慶喜に伝わった。
山内家は關ヶ原の恩賞で徳川家から土佐一國を貰ったという抜き難い恩義があり、徳川家を温存する大政奉還には大賛成。
しかし、藩主やそれに近い上士はそうでも、下級武士や一部の上士は事情が異なる。決して一枚岩ではなかった。
![](https://assets.st-note.com/img/1739103922-EQSXrYiAq7tGowDuJ6UMO04l.jpg?width=1200)
乾退助(後の板垣退助)や中岡慎太郎は薩摩に近く、バリバリな武力倒幕派。
以上を踏まえて、近江屋の二階に思いを巡らせる。
中岡慎太郎はそこで何をしていたのか。
龍馬を説得していた。
「大政奉還なんて余計なことをしてくれたお陰で西郷さんは困っちゅう。力で幕府は潰さねばならんきに。おまんも考えを改めて海援隊共々、俺達に協力しろ」
「戰が起これば、皆が迷惑する。喜ぶのは武器を売って儲けたい異人どもだけぜよ」
交渉決裂。中岡は龍馬に斬り付けたが、龍馬も北辰一刀流を修めた剣客。ただではやられず、中岡に致命傷を与えた。
そうです。龍馬を斬ったのは新選組でも見廻組でもない。目の前に居た男、中岡慎太郎。
![](https://assets.st-note.com/img/1739104626-uS2nsxA9D0tPmjz7pL8iNVbh.jpg?width=1200)
冒頭で述べた龍馬暗殺の様子は、その後、二日間生きていた中岡の証言を基にしている。
公式が言っていること、教科書に書かれていることはすべて疑えというのが私の信条。
襲撃の一報を受けて、すぐ近くの土佐藩邸から田中顕助や谷干城らが近江屋に駆け付けて現場を確認と公式にはなっている。
違うだろ。恐らくこの人々は最初から中岡と一緒にいたのだ。
「刀を取っては坂本先生よりも中岡先生の方が上だった。それが見ての実感である」と後年、谷は述懐。
いつ何処で見た?
慶應三年十一月十五日、近江屋の二階で見たに決まっている。
![](https://assets.st-note.com/img/1739105244-Vjt1OIwGSqWeckuLmdzlY83p.jpg?width=1200)
瀕死の中岡は土佐藩邸に運び込まれた。そこで語ったというのも本当か?
藩邸とは密室。中岡に意識があったのかも怪しい。
最終的に中岡は死亡したので、幾らでも偽装は可能。正に死人に口なし。
![](https://assets.st-note.com/img/1739106478-rCOyeNjqEhb7aowTKMsFtSnP.jpg?width=1200)
ポテトサラダと言えばジャガイモという概念を引っ繰り返す薩摩芋使用のサラダ。
ほんのりな甘さを少量の辛子が更に引き立てる。
薩摩芋に人参とビタミンCと食物繊維豊富な根菜、そして血液サラサラ効果がある玉葱、ツナでタンパク質も頂ける。
優れた抗酸化食品である胡麻も忘れる訳にはいかない。
新政府綱領八策という文書が存在。
龍馬が維新後の政体についての考えを記した文書で「船中八策」を簡略化したもの。
人材登用や憲法制定、陸海軍の設立等を提唱。極めつけは議會政治の導入。誰が天下人になるなどではなく、四民平等の新たな世の中を見据えていた。
基になった船中八策も龍馬の独創とは言えないが、利用出来るものはすべて利用するという合理主義の現れと見る。
末尾の方に「〇〇〇自ら盟主となり」という部分。
ここには恐らく「大樹公」とか「公方様」つまり徳川慶喜が擬せられていた。これで佐幕派も納得して、内戦なしに新たな政治体制を作ることが出来ると龍馬は考えていた。
現在の東京都知事がよく使う言葉に「アウフヘーベン」がある。
対立する意見のどちらかを取るのではなく、更に上位の考えを取るという意味らしいのですが、龍馬が考えたのはそのアウフヘーベン。
薩長でも幕府でもない。議會開設による四民平等な世の中。
「いずれ、ならしの世になるき」
高知県出身の漫画家、黒鉄ヒロシの祖母は幼少期、通りすがりの武士にそう言われた。
朧げな記憶から、その風貌は龍馬だったかもしれないと語った。
『ならし』とは均すつまり身分の差がない世の中。
内戦なしに議会を通じた四民平等な日本を夢見て、策を巡らし、使えるものは何でも使った坂本龍馬を妄想しながら、龍馬暗さつま芋サラダをご馳走様でした。