見出し画像

かまぼこ板垣退助

四国の一部では蒲鉾を板付けと呼ぶ。
蒲鉾には添加物が多い。特に色付きは着色料使用。
無添加の蒲鉾は結構な値段。それを料理しながら、二度も紙幣の肖像になった人物を妄想した記録。


材料

蒲鉾        1個
切り干し大根と人参 120グラム位
醤油        小匙2
ウスターソース   大匙3
マヨネーズ     好きなだけ
胡椒        少々
干し海老      お好みで

天保八年(1837)土佐高知で上士の乾(いぬい)家に生まれた猪之助が後の板垣退助。
高知は武士の間でも歴然とした差別。関ヶ原後に領主となった山内家に仕えていた武士の子孫が上士。それ以前の国主、長曾我部家に仕えていた武士の子孫が郷士。
とはいえ乾家は元々は武田信玄に仕えていた板垣信方の子孫(伏線)


切り干し大根と人参を水に漬けて戻す。

幕末の土佐藩は老公、山内容堂を始め、公武合体派が主流。
つまり幕府と朝廷が一致協力して国難に当たるべしという考え。そんな中にあって乾退助は武力倒幕派。
そういう意味では郷士の中岡慎太郎と思想が近い。
実際、自分を斬りに来た中岡と意気投合した。この話、自分を斬りに来た坂本龍馬を弟子にした勝海舟の逸話に似てるな。
戊辰戦争が始まると、迅衝隊を率いて東山道を進軍。甲府に向かう。
この途上、先祖の板垣に復姓。板垣退助となる。
理由は甲府は元々、武田家の本拠。武田信玄の重臣の子孫が来たと聞けば、領民が協力してくれると思ったから。その作戦は当たり、スムーズに甲府城を接収。


蒲鉾を薄切り。

会津にも転戦。
その時、武士達は籠城して戦っていても住民が自分達に協力してくれたことが彼の意識を変えたのではないかと妄想。
つまり、それまで戦や政治は武士がやることでしたが、それ以外の人々の方が数が多い。甲府でもそうでしたが民衆の力を結集した方が大きな力になると気付いた。
維新後は富国強兵のために国民皆兵と四民平等を唱える。
しかし、征韓論で敗れて下野。
共に政府を去った西郷隆盛や江藤新平らが反乱という武力に頼ったのに対して、板垣は民選議員設立建白書や国会開設を求めて言論で勝負。


水気を絞った切干大根と人参を油で炒める。

岐阜城に行くと板垣退助の銅像があります。岐阜城と言えば織田信長ではないのか?と思ったら、理由は明治十五年(1882)板垣がここで演説を行ったから。
ここで演説を終えた後、暴漢に刺される。
「板垣死すとも自由は死せず」と言った。
実際は違う言葉だったとも言われますが、この収まりのよい語呂が広がり、「自由」が一種の流行語に。
「自由饅頭」とか「自由湯(とう)」という銭湯とかが全国に出来た。
「板垣死すとも、」の言葉がはっきりした形で世に出たのは、実は板垣が党首を務めた自由党の党史。
板垣復姓といい自由の文言を広めたことといい、板垣退助とは宣伝術に長けていた人物。


蒲鉾投入。

板垣を襲った暴漢は板垣自身の嘆願により死刑を減じられて無期懲役。
自分を刺した者に情け。博愛と言うべきか。
念のために言っておくと、板垣は無事でした。
こうして板垣の人生を見ていくと、幾つかのキーワード。
自由、平等、博愛。どれもフリーメイソンが掲げるスローガン。
幕末の志士の多くがフリーメイソンやイルミナティ、DSの息がかかっていた。板垣もその一人と考えるのが当然。
顕著な証拠として旧50銭札、そして100円札と二回も板垣退助は紙幣の肖像に使われています。
紙幣に使われる人物は多くが支配層側に貢献した人々。


醤油とウスターソース投入、混ぜ合わせていく。

フリーメイソンとかDSとか聞くと陰謀論であり、何となく悪い奴らというイメージですが、必ずしもそうとは言えないと私は考える。善悪二元論ですべて色分け出来る程に世の中は単純ではない。
自由、平等、博愛という精神が本当ならば立派です。
しかし実際にはそれらは彼等が権力を握るための方便でしかないというのが実情。
板垣を始めとする志士達はそうした理念を真に受けていたのか、自分達が天下を取るためにお題目として利用したに過ぎないのか。どちらだろう。


かまぼこ板垣退助

マヨネーズをかけて、トッピングに干し海老。
お好みで鰹節とか青のりでもいいかもしれない。
ソースとマヨネーズ味の切り干し大根、見ようによっては焼きそば風。小麦粉の麺ではないので当然、グルテンフリー。
切り干し野菜、特に大根は生よりも食物繊維やカリウム、カルシウム豊富。
蒲鉾からタンパク質摂取。干し海老のカリカリ感もいいアクセント。

官軍の指揮官はシャグマを付けた陣笠を被った。
毛皮みたいなやつで元々は江戸城に保管されていたヤクという動物の毛で兜の飾りに使われていた物の流用。
藩によって色分け。黒は薩摩、白は長州、土佐は赤と言われます。この説に従えば、迅衝隊を率いた板垣は赤を被ったのだろうか。
細長い切干野菜はシャグマっぽい?として妄想。

板垣を襲った暴漢は明治二十二年(1889)大日本帝国憲法発布に伴う恩赦で出獄。
北海道に向かう船上で失踪。つまり海に落ちたんでしょうな。
自殺か事故?或いは板垣の信奉者に落とされた?或いは都合の悪いことを知っているので板垣周辺の誰かに消された?
暗殺失敗の責任を取らされて黒幕が殺した?
色んな妄想をしながら、かまぼこ板垣退助をご馳走様でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?