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薩摩芋栗め島津義弘

田舎のよい所は農産物を近所から頂ける。
頂いた栗を栗ご飯にしながら、もう一ひねりということで薩摩芋を混ぜて料理しながら薩摩と言えば島津、島津氏の中でも有名で人気も高い戦国時代の島津四兄弟の次男、島津義弘を妄想した記録。


材料

薩摩芋   半分
栗     好きなだけ
米     1・5合
塩     小匙半分
黒摺り胡麻 お好みで

天文四年(1535)島津貴久の次男として誕生した忠平が後の島津義弘。
家督を継いだのは長男の義久。主に領国経営を担当。
義弘は軍事面を担当。二人の弟、家久、歳久と共に九州を席巻。
九州統一まであと一歩と迫りましたが、待ったをかけたのが豊臣秀吉。
しかし九州に上陸してきた秀吉軍を、撤退すると見せかけて伏兵を用いて三方から攻撃する釣り野伏と呼ばれる待ち伏せ戦法で撃退。指揮官の仙石秀久を敗走させる。
しかし、時代は既に秀吉の天下へと傾きつつあり、それを見て取った兄の義久は頭を丸めて、秀吉に降伏。
義弘は徹底抗戦を主張していましたが、最終的には兄の決定に従う。
義久は家督を義弘に譲り、義弘が豊臣家に出仕。従うと決めたら、以後は積極的に親豊臣派となる。
反対に義久は、どちらかというと反豊臣へ。


薩摩芋と研いだ米と塩を30分程、浸水させてから炊飯。

兄弟の姿勢の違いが如実に表れたのが唐入り、つまり朝鮮出兵。
義弘はいち早く渡海を望み、前線基地の肥前名護屋城に馳せ参じる。
国元の義久はなかなか兵を送らない。
兵が揃わないために島津勢はなかなか朝鮮へ渡れず。
しかし戦地へ渡ると、七千の軍勢で二十万の明軍を蹴散らすなどの働きで、鬼島津と恐れられる。
日本よりも北である朝鮮半島では凍死する兵が続出。しかし島津勢は一人も凍死せず。
その秘密を知ろうと加藤清正が島津の陣中を訪れると、将兵の区別なく皆が等しく暖を取り、義弘自らが火を絶やさないように見回っていた。


鬼皮に切り込みを入れてから蒸す。

義弘の気配りは配下の将兵だけではなく、動物にまで。
朝鮮半島に7匹の猫を連れて行く。猫の瞳孔の開き具合で時刻を知るため。長い滞在で生きて帰ったのは2匹のみ。
役に立ってくれた猫を祀る神社を創建。島津家の庭園、仙厳園に猫神社が現存。生きている内から祀っていたとしたら、現人神ならぬ現猫神?

戦場で一騎打ちをしている時、敵の槍が迫る。義弘の乗馬が跪いてくれたために槍が外れて命拾い。以後、膝突き栗毛と名付けて、共に戦場を疾駆。死んだ時には墓を作ってやりました。


すると中身が膨張して、鬼皮が剥き易くなる。

家臣に子が生まれた時には、自らの膝に乗せて、
「正に子は宝ぞ」と慈しむ。
敵には恐ろしいが、味方には情愛を注ぐ。その姿勢から家臣達から多いに慕われる。

朝鮮から戻った後に起こったのが関ケ原。
上方に居た義弘は国元に兵を送ってくれるように頼むものの、またも兄、義久は出し渋る。
義弘を慕う甥の豊久達が有志を募って志願兵として国元から合流。


でも渋皮はなかなか剥けず、崩れる。

関ケ原の前哨戦となった伏見城攻め。
西軍は鳥居元忠が籠る城を囲む。義弘率いる島津隊は味方するから城に入れてくれと申し出るが、鳥居は主、家康からそんなことは聞いていないとして、義弘の申し出を一蹴。
この経緯から東軍に味方するつもりだったのだが、止む無く西軍に加わることになってしまった。ということになっていますが、私は嘘だろうと思っています。
最初から義弘は西軍に付くつもりだったと思います。
関ケ原後、島津家生き残りのために、そういうことにしたのでしょう。となると城に入れろというのも計略。


炊き上がった。

関ケ原本戦では、率いている兵が少ないということから、指揮官である石田三成からは当てにされず。夜襲を献策しても容れられなかったことを不満とし、更に出陣の催促に来た三成の使者が下馬しなかったことを無礼として、まったく動かず。
家康方の勝利が疑いなしとなった時点で、ようやく島津勢は動き出す。逃げるために。
戦場のど真ん中、徳川家康の本陣のすぐ側をかすめて、島津軍は走り去る。
井伊直政らが追撃するが、まったく追いつかず。それどころか直政は重傷を負わされる。
捨てかまりという戦法。少数の兵が留まり、死ぬまで戦い、味方を逃がす。これを繰り返す中、甥の豊久も討ち死に。
皆、大将の義弘を逃がすために命を投げ打った。


芋を崩して混ぜ、そこへ蒸した栗を投入。

そのまま真っ直ぐに薩摩へ逃げるかと思いきや大坂に立ち寄り、妻を救出。
大根を洗っている姿に惚れ込んで求婚したという恋女房。
やはり西軍に加わっていた柳川の大名、立花宗茂隊と共に船に乗り、九州へ。この時、義弘に従っていた者は80人程に激減。
薩摩に帰り着くと国境の防備を固めると共に、徳川との和平交渉。その仲介を頼んだのは井伊直政。
重傷を負わせた者に仲介を頼むとは。
本気で戦った相手ならば、わかってくれるという考えか?
それが通じたのか、直政も和睦交渉に積極的。


薩摩芋栗め島津義弘

飯と炊き込んだ芋が柔らかく、塩で甘みが引き立てられる。
蒸した栗を後から加えることで、引き締まった食感の甘さが加わる。
柔と剛、二つの甘味と旨味、少しの塩味が加わったご飯がどんどん進む。
食物繊維やビタミンCたっぷりな栄養ご飯。

島津家は関ケ原に兵を送っていなかったので殆どの兵力が温存。しかも日本の南端という位置なので征伐するのも容易ならず。戦端が開かれたら、他の不満を持つ大名家が同心しかねない。
兄の義久が交渉の窓口となり、義弘の行動は独断であり、島津家自体の考えではなかったと強弁。最初は東軍に味方するつもりだったという話も、ここで作られた話でしょう。
二年にも及ぶ粘り強い交渉の末、島津家はお咎めなしを勝ち取る。


黒胡麻をかけたら、これも美味い。芋栗との相性よし。

平和になると義弘の出番はなくなり、家督を息子、忠恒に譲って隠居。
晩年は手足の動きも覚束なくなっていたのですが、家臣達が法螺貝を吹くと、
「者ども、戦ぞ。支度を致せ」と叫び、シャキっとした。
最晩年、寝たきりのような状態になり、食が細くなる。またも心配した家臣が、
「殿、戦でございます」と声を掛けると
跳ね起きて、普通では考えられない勢いで大量の飯を掻き込む。正に腹が減っては戦が出来ないということか。
生涯、戦に生きた義弘らしい逸話。
元和五年(1619)に享年85歳にて死去。
禁止されていたにも関わらず、13人の家臣が殉死。

戦国時代の薩摩にはまだ、薩摩芋は伝来していないものの、義弘公にも食べて頂きたい薩摩芋栗め島津義弘をご馳走様でした。

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