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5歳のわたしは、フランスに恋をした

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二度のパリ生活や、留学、家族旅行などでフランスを訪れては、第二の故郷のように感じてきた筆者の目にうつる「フランス」を言葉にしていくエッセイ集。家族とのゆかいな思い出や、フランスの…
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5歳のわたしは、フランスに恋をした。

わたしの人生に、突然フランスが登場したのは、 保育園の年長さんにあたる、5歳の春だった。 大学教授をしている父のサバティカル(研究休暇)で、家族で一年間フランスのパリに住むことになったのだ。 初めての飛行機、初めての外国、初めての外国語…。それが、わたしにとってはこのときの経験だった。 自分が保育園に通う子どもの母親になった今、 もし子どもが親の都合で、住み慣れた町や、大好きな友達と離れることになったら、かわいそうだなと思う。 けれど、振り返ってみると、当時のわたしは、

だいたいのことは、「C'est pas grave!(なんとかなる)」

念願のフランス留学生活がはじまり、運良くフランス人学生のコミュニティに混ぜてもらえたものの、思っていた以上にフランス語がちんぷんかんぷんだった私。毎日半べそをかきながら、ノートを持ち歩いては、分からない単語をメモするようにしていた。 フランス語の語学力以外にも、日本とは違う考え方や、フランス人のコミュニケーションに馴れないところもあって、いわゆるカルチャーショックの連続だった。 初めてのフランスではなかったし、現地のことはそれなりに知っているつもりだった(地下鉄が臭いとか

大学交換留学で見つけた、一生の宝もの

大学3年生だった頃、パリの16区にあるINALCO フランス国立東洋言語文化大学(通称ラングゾー)に一年間の交換留学をした。 本当は第一志望は、文学部が有名なソルボンヌ大学だったんだけど、当時は地方ではなくてパリに留学したいと思っていたので、募集人数が2人だったラングゾーを第二希望にしたら、案の定そっちに決まったのだ。 名前のとおり、アジアの言語や文化を学べる、いわゆる外国語大学なのだけど、フランスの外国語大学に日本人が行って何を学ぶのか? 外国人留学生向けのフランス語の

お茶菓子とカセットテープとフランス語

自分の人生に、大きな影響を与えてくれた3人との出会いをあげるとしたら・・ 家族をのぞいて、最初のふたりはパッと思いつく。 この人との出会いがあったから、今の自分がある。 出会ってなかったら、きっと今、全然ちがう趣味とか、暮らしとか、働き方をしているかもしれない。おおげさではなくて、そんな風に思う人がいる。 わたしにとって、それは、一人目は中学の友人だ。映画日記を何冊も持っているほど大の映画好きで、出会った12歳の頃には、すでにずいぶんと映画を見ていた。彼女と仲良くなって、

南フランスのアプリコット畑のある家で

夏の盛りになると、甘酸っぱい香りとともに、蘇ってくる光景がある。 フランスに留学していた大学3年の夏、帰国する前の最後の一週間を、南フランスのマルセイユの郊外にある、友人の実家で過ごした。 マルセイユのあるプロヴァンス地方といえば、オリーブ畑やラベンダー畑がたくさんあって、地中海に面したおだやかな気候がきもちいい観光でも人気のエリアだ。アヴィニョンやアルルなど、印象派の画家たちも親しんだ素敵な古い町や、おいしい塩で有名なカマルグ湿原なども、この地域にある。 マルセイユ育

パリの音楽一家の3姉妹

中学一年の冬休みに、家族でパリに行ったときのことをよく覚えている。 パリのレアール(かつて大きなパリの中央市場があった場所で、今では東京でいう渋谷のような繁華街)のすぐ近くにある、父の友人家族の家に食事に招待されて行った。 昔ながらのパリらしい古い建物なのだけど、アパルトマンというにはずいぶんと天井が高くて立派な、お屋敷のような家だった。 そして、その家に住んでいるのがまた、とても上品で育ちのよさを感じる音楽一家だった。オーストリア人の旦那さんと、フランス人の奥さん、わ

わたしのヌテラ人生

子どもの頃から好きな、フランスの思い出の味といえば、ヌテラ(Nutella)とオランジーナ(Orangina)は欠かせない。 「ma vie de nutella(わたしのヌテラ人生)」というメールアドレスにしていたことがあるくらい、ヨーロッパの家庭でおなじみの、ヘーゼルナッツのチョコレートペースト「Nutella」が大好きだった。 パリの町のあちこちには、小さなクレープ屋さんがたくさんあって、子どもの頃からよくクレープを買ってもらって食べ歩きをしていた思い出がある。

チュニジアで過ごした10歳の夏

10歳の夏休みに、久しぶりに飛行機に乗ることになった。行き先は、フランスではなくて、アフリカのチュニジア。両親の友人のフェティ一家が毎年夏のバカンスを、フェティの故郷であるチュニジアの別荘で過ごしているというので、いつか一緒に行かせてほしいと話していたのだ。 ヨーロッパ大陸の次に行ったのが、アジアでもアメリカでもなく、アフリカだったことは、わたしの小さな自慢である。ちょうど小学校の夏休みにあわせて、3週間ほど、チュニジア旅行にいった。(チュニジアもフランス語圏なので、わたし

「年齢なんて、ただの数字」

わたしがフランスに惹かれる理由のひとつが、何歳になっても人生を謳歌しようとするフランス人の心持ちだ。もちろんフランス人にもいろんな人がいるわけだけど、これまでにさまざまなシーンで、「年齢にとらわれない人たちなんだな」と感じてきた。 大学3年の秋から4年の夏にかけて、パリの大学に一年間の交換留学をしたとき、留学先の大学でたまたま親しくなったのは、学部の一年生の子たちだったのだが、クラスメイトには18歳から25歳くらいまでがいた。 日本だと、飛び級なんてめったに聞かないし、大

ピレネーで危機一髪

90年代にパリに住んでいた当時の話をするとき、家族で必ず話題にあがる「十八番」のエピソードがある。 家族で夏の休暇に南フランスを旅行していたときのこと。ピレネー山脈を車で旅していたのだが、ある日、山道の下り坂を走っていたとき、突然車のブレーキが効かなくなったのだ。 「ブレーキが効かない」「えっ……!」 そのとき車には、わたしたち家族4人と母の親しい友人のおばさんと5人で乗っていた。ざわざわしだす大人たちの不穏な会話を聞きながら、わたしと姉はいつになくわくわくしていた。

親愛なるフェティ一家

パリに行くたびに訪れていた家がある。 チュニジア人のお父さんのフェティと、フランス人のお母さんフレデリック、それに、ふたりの姉弟の子どもたち(ジアンヌとエリエス)が暮らす家だ。 もともとは両親の友人で、わたしも5歳の頃からの付き合いだから、パリの親戚のような感じだ。 サンドニというパリの郊外の町にあるフェティの家には、わたしたち家族は本当によくお世話になった。とくに、わたしと父は、渡仏するたびに下宿させてもらっていたし、留学時代は風邪を引いたときや、ホームシックになった

初めてのパリのおつかい

小さな頃から、母にくっついてお買い物をするのが大好きだった。 初めて暮らしたパリの町では、当時からスーパーの野菜や果物がすべて量り売りだった。好きなものを好きな量だけ測りにのせて、野菜や果物のイラストが描かれたボタンをピッと押せば、バーコードのシールがでてくる。 この機械にすっかり夢中になって、スーパーに行っては、このピッ、ピッ、とボタンを押してバーコードを貼る作業はわたしの担当だった。 レジ台は自動ですすむベルトコンベアーのようになっているので、次々にカートの中から商

お気に入りはピカソ

パリの小学校の授業では、なんといっても、美術の授業がいちばん楽しかった。 パリ市内のあちこちの美術館に行っては、好きな絵の前に座って、自由に模写をするという時間があった。絵を選ぶのも子どもたち、ひとりひとりの自由。たくさんの色を使って、絵を描いた。 日本だと、美術館に子どもと一緒に行くと、わたしはどうしても周りの目を気にしてしまうし、鉛筆を出しただけで注意されてしまいそうだけど、フランスでは(ヨーロッパのほかの国でも)そんなことはない。 小さな頃から、学校で美術館や博物

いつものホームレスのおじさん

たしか最寄のビュットショーモン駅だったと思うのだけど、毎朝メトロの入口に立ってるホームレスのおじさんがいて、5歳のわたしは母からフランをもらってあげていた。(当時はまだユーロじゃなくてフランだった) 小さなコップのようなものをもっているので、「ボンジュール!」と声をかけて、お金をいれるのがわたしの係だった。 あの頃は、お家がないってどういうことなのか、よく分からなかったけれど、いつもおなじ場所にいるおじさんにあいさつをしているうちに、だんだんと親しみが湧いてきて、友だちに