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自分と異なる意見は排除すべき?肯定するべき?

ある日のENDIAのレッスン後に

「自分と違った意見が出てきた時に、どう取り入れたらいいのか難しい…!」

「そういう見方もあるというのは理解できるけれども、自分とは違う見方なんだなで終わってしまう」


と感想を話してくれた方がいらっしゃいました。


人は目だけでアート作品を見ているわけではなく、頭や心でもみているので、育ってきた環境や価値観、記憶、その時のメンタルなども鑑賞に響いてきます。
なので、同じ対象を見ていても人によってAと感じたりBと感じたりCと感じたり、人によって大きく異なるということが起き得るのですが、そんな風に自分と違う意見が出た時に、

①「自分と違う意見(A)だなぁ。なるほどそういう見方もできそう。でも私はBだと思う。」

②「その意見は全く理解ができない。Bとしか思えない。」

と思ったとします。
これらは一見しっかりと自分の意思や信念があるように思えるのですが、その実自分の意見の正しさに固執してしまうことになり、物の見方を広げるチャンスを逃しているとも考えられます。


ではどのような思考のプロセスで違う意見を聞いてみると良さそうかというと、わたしの個人的な体験談でしかないのですが、

③「Aという見方で見たことがなかった。自分はBに見えてたけど、Aの見方でもう一度この作品を見直してみよう。」

④「Aという見方はそれを証明する根拠が足りないのではないか。ただ、その意見が出たということは想起させられる箇所がどこかにあるのかもしれない。他に根拠がないか探してみよう。」

④「AにもBにも見えるということは、他にCという見方もあるかもしれない、探してみよう。」

といったように、Aという意見に対して「自分は」どう思うかという「自分軸」を一旦横に置いて発言者に同化してみたり、第三者の目線になってみるプロセスを踏んでみると、毎回とてもおもしろい発見と手応えがあるなと感じています。

AやCという新たな視点を獲得できたり、根拠をしっかり見つけようとしたおかげで更にアート作品をじっくり観察し、鑑賞を深めることができたり、Aという意見を話してくれた人への理解に繋がったり、1つの作品を鑑賞しながら見たことのない世界を旅するような広がりを感じられて、自分がもともと持っていた枠が変容していくわくわくさと心地よさがあります。

もちろん自分がBと思った根拠が逆に浮き彫りになって、より自分のことを知れるようになるという一面もあります。


つまるところ、なにが排除すべき意見で何が拾うべき意見なのかという次元ではなく、全部排除すべきではないし、全部肯定するべきでもないということだと私は思っています。

ただそこに人それぞれの見方があって、それに1つずつしっかり耳を傾けることが人と一緒に生きていく上で大切な姿勢なのではないかなと。

また、「私」という存在を「私はこうである」「こうでありたい」と私自身が縛るのではなく、好きに解放してあげるということも姿勢として大事なことなのかもしれません。自分で言ってて難しいけど。

というわけで、様々な見方が出てこそ鑑賞が深まるのは間違いないので、「自分とは異なる意見や見方」=「攻撃」ではないということをお互いがしっかり理解した上で、健全な対立を重ねていけるような対話がENDIAでは生まれるように、安全な場づくりや信頼関係の構築に努めていきたいなと思いました。

自分の見方ちょっと凝り固まってるかもなぁ、人の話に耳、澄ませられてるかなぁと感じられたみなさん、11月のレッスンぜひいらしてみてください♪


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