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不安と安堵

ホストファミリーであるイザベルとジャックは本当に親切で優しい。二人とも音楽が好きで、私が歌を練習することも、許すどころか歓迎してくれる。最初は歌ってもいいと言われても遠慮して、部屋の窓や扉を全部閉めて、うるさくならないようにとバスタオルで顔を包んで歌っていたのだが、今では天井の高いよく響く台所で、料理をしながら発声練習をするまでになった。練習していると「良い声だね」「よく練習しているんだね」と褒めてくれもする。

そんな彼らの家に2ヶ月8週間滞在する事は決まっているが、その先の事は未定で相談することになっている。これはイザベルの提案だったそうで、私も出て行きたくなるかもしれないし、彼らも受け入れられるかがわからないということを考慮してのことだ。
私は歌うことに寛容なこの家にできるだけ長くいたいと思っているが、彼らの都合もあるし、どうなるかわからない。

日本からフランスへという大きな変化には今のところすんなり適応出来ているが、2か月ごとに住む場所が変わるかもしれないというのはとてもストレスだ。猫を被ってはいないけれど、それなりに気を使うし、その家庭ごとの習慣やルール、設備や道具の使い方まで新しく覚え直さなくてはいけない。

切れかかった蛍光灯が点滅するように、雨が降ったり止んだりを繰り返した金曜日の夜、そういう不安がふと表に出た。

その日、私は突然の雨で濡れてしまった服を含め洗濯をしたいと申し出た。前回洗濯をしたのは日曜日だったが、乾かしたり片付けたりするのに時間がかかると思うと、金曜に洗っておくのが良いと考えたからだ。イザベルはそれを許してくれたが、「もうそんなに洗濯するものが溜まったの?洗濯は週に一回。それ以上は洗濯しすぎよ。」と注意された。

夕食の後、買った豚肉を翌日ポークピカタにして食べようと思ったのたが、小麦粉を使って良いのか聞くわからなかったので聞いてみたところ、逆に「なぜ自分のを買わないの?」と聞き返された。
それをきっかけに、洗濯の頻度や使って良い調味料など、何をどれくらい使って良いのかわからないという話に始まり、知らないうちにやってはいけないことをしでかして迷惑をかけていないか、それがきっかけで追い出されはしないか心配だという話など、わからないことや不安に思っていることを、出来るだけ正直に伝えた。

イザベルはそれを黙って時々頷きながら聞いてくれた。私が一通り話し終わると、使って良いのは二種類の塩と胡椒、と実物を見せながら答えた後で、こう言った。

「落ち着いて。さっき洗濯を週に1回と言ったのは確認のためで、前回の洗濯から5日経っているし、良いのよ。私たちは国も違えば世代も違うし、育ってきた環境や習慣は個々人で異なるのは当然のこと。こちらも、あなたが何か文化の違いにショックを受けていないか心配なの。
例えば、この前私の娘とジャックがかたくハグをしていたのを見たと思うけれど、ハグの習慣のないあなたは、血の繋がりのないジャックと私の娘が抱き合っているのを見てびっくりしちゃったんじゃないか、とかね。
だから、こうして相談してくれたのはとても良いことよ。私の問題もあなたに話したように、互いに何かあったらちゃんと話をしましょう。」

「私もそういう文化や生活の違いを見てみたいと思ったからこそ来ました。確かに驚くこともあるけれど、そういう差異に直面することができて嬉しいです。」と答え、続けて「ハグしてもいいですか?」と聞いてみたところ、イザベルはちょっと驚いた顔をしたすぐ後に目を細めて「もちろん!」と笑ってハグしてくれた。
彼女にハグしたまま身体を持ち上げられて「遠い、全く違うところに一人でよく来た!」と言われたとき、なんだか涙が出てきた。それは矛盾するようだが、不安を自覚したからであり、そのことによってまた、安堵したからだった。

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